その女人《ひと》は決して誰もが振《ふ》り向く美人というわけではなかった。  平凡《へいぼん》な目鼻立ち、低めの鼻に薄《うす》く散ったそばかす。自分でも気にしていると溜息《ためいさ》をつきつつ、 「でもお目様の下が好きなの」と、.何千もの花が揺《ゆ》れる春の野原でふんわり笑った。 『私がお目様色をしたふわふわの玉子焼き? ふふ、雪那《せつな》さんと同じことを仰《おつしや》るのねhしとやかで、でも少しおてんばなところもあって。物静かというわけでもないけれど、おしゃべりでもなく。傍《そぼ》にいるだけで心が温かくなって、つりこまれるような優《やさ》しい笑顔《えがお》を見ていると、いつのまにか自分も笑っていた。末弟《まつてい》の笛さえ、彼女はにこにこと聞いて、拍手《はくしl¢》をした。  とりわけて抜《ぬ》きんでたところがあるわけではない。けれど決して手の届かない人だった。  弟の自分でさえ、見分けがつかなくなる三つ子の兄を一度も間違《まちが》えることなく。父の愛妾《あいしよう》になるはずだった彼女と最初に出会い、さらった長兄《ちようけい》だけを、いつだって迷わず選んでみせた。  運命の相手というのは、ああいう二人をいうのだろうと、思った。  だから楸瑛は逃《しゆうえいに》げ出した。彼女から。長兄から。自分の心から。その想《おも》いから。  捨てることも封《ふう》じることもできなかったから、逃げるしかなかった。       ・翁・巻・   ー確かあれは十六、七の冬のことだった。  まだ仕官してはいなかったが、兄たちの代理で朝廷《らようてい》にはたまに出仕していた。  後宮にも顔を出していたのは、女官から王や公子の情報を入手するためでもあったが、単に気を紛《まぎ》らわせるためでもあった。だから逢瀬《おうせ》の約束も時々の気分でよくすっぽかした。  その夜も、簡単に陥《お》ちた女官に気が失《う》せて、反故《ほご》にすることに勝手に決めた。  引き返し、適当に静かな場所を求めて後宮をそぞろ歩いていた楸瑛の視界を、不意に自いものが過《よぎ》った。夜景《ょぞ・り》を見上げ、はらはらと舞《去》う冬の使者に眼《め》を細める。 「……雪か」  ちらつきはじめた小雪と灯籠《とうろ.り》のせいで、うつくしい庭院は白々と薄明《う1一あか》るかった。  見るともなしに見ながら回廊《かいろ・つ》を曲がりー楸瑛は足を正めた。  女官姿の誰かが、雪の庭院でひとり舞《ょ.」.》を舞っていた。  扇を《おうぎ》片手に、静かに、 「心に、釘付《・、ざづ》けになるほど見事に舞うそれは、�想遥恋《そ・りようー1人》″−永遠に叶うことのない片恋の舞だった。……彼女の白い繊手が翻《せんし博ひるがえ》り、剣《つるぎ》のように舞扇が《まいおうぎ》飛来してくるまで、楸瑛は自分が果然《ぼうぜ人》と立ちつくしていたことにも気づかなかった。飛んできた扇をすんでのところで受け止めれば、凛《りん》と鋭い誰何《するごすいか》の声が響《ひげ》いた。 「…・誰!」  轍環はなぜか逃げる気がしなかった。いや、凍《こお》ったように足が動かなかった。女官とは思え  ぬ隙《すき》のない物腰《ものごし》で鰍項の前に現れたのは、白百合《しらゆり》を思わせる息を呑《の》むほど麗《うるわ》しい顔《かんばせ》の美女。二《は》十歳《たち》そこそこー自分より少し年上かもしれない。  逃げないことを不審《ふしん》に思ったのか、彼女は眉《ま紬》を寄せー次いで驚《おごろ》いたように目を丸くした。 「……どうしたの。何か、悲しいことでもあったの〜」  そのとき初めて、楸瑛は自分が泣いていることに気づいた。  さすがに焦《あせ》った。慌《あわ》てて受け止めた扇を開いて顔を隠《かく》した。それはのちに称《しよう》される優雅《ゆうが》とか風流とか気品のカケラもない動揺《ごうよう》した仕草だった。 「……見、ないでください……」  口を開けば、取り繕《つくろ》うどころかますます死にたくなるくらい情けない声が出た。  さらに、さっきの舞がぐるぐる頭を巡《めぐ》って、視界がきかないほど涙が《なみだ》出た。  もうどうしていいかわからなくて、楸瑛はずるずると欄干《らんかん》にもたれて座り込んだ。  雪が降っていた。楸瑛が初めて愛した人は、この雪と同じ名をもつ兄を愛してる。いくら頑《がん》張《ば》っても、楸瑛があの兄を超《こ》えられる日なんかくるわけがない。いや、超える気がない。あの兄の弟であることを、少しでも支えになることを、楸瑛自身が誇《はこ》りとし、望んでいる。  愛してる二人が幸せでいるのに、楸瑛はその幸せを見るのがつらい。だから逃げた。  お目樺色をしたふわふわの玉子焼きみたいな人。特別美人じゃないけれど、誰より特別な人。   −愛しても、愛しても愛しても。  あの人が自分のものになる日は永遠にこない。  ……そのあと、楸瑛はなんだかよくわからないまま、彼女の暖かな室《へや》へ追い立てられた。  彼女の室は、馴染《なじ》みの女官たちと違《ちが》って、贅沢《ぜいたく》な調度や宝飾類《ほうしよくるい》などはなかった。花瓶《かぴん》の花も一輪だけ。楸瑛ほなぜか、それは彼女が自分で切ってきて生けているのだと思った。その室で、必死で扇で顔を隠したままの楸瑛は、言われるがままに衝立《ついたて》の向こうの寝台《しんだい》に追いやられた。  ぽいぽいと渡《わた》されたのは大量の温石《おんじやく》と、毛布と着替《きが》えだった。                                                                         ヽ一 「上衣はこっちにちょうだい。そしたら寝《..t4》なさい。その寝台使っていいから」 「え?」 「袖口《そでぐち》、ほつれてるでしょう。繕うから。扇を投げたときに引っかけたのよ。悪かったわね」  見れば、確かにほつれている。別に一着くらいどうということはないが、楸瑛は素直《寸なお》に上衣を渡した。着替え終わると温石を抱《カわ》え、毛布にくるまり、寝台でなく衝立のそばに直接座り込んだ。カタカタと、衝立越《ご》しに裁縫箱《さいほうぼこ》を開ける音が聞こえた。握《にぎ》ったままの扇を見つめているうちに、じんわりと手足の先から暖まり、楸瑛はうとうとしはじめた。  睡魔《すいま》に瞼《まぶた》をおろしながら、鰍喋はぼんやり呟《つぷや》いた。 「……死ぬほど好きなのに、幸せな顔を見るのが、辛《つら》くて苦しくて胸が痛い」 「そう。私は幸せだわ。悲しい顔を見るよりずっといいわ」 「詭弁《さベん》だ。全然幸せじゃない。じいさんになるまでこのままだったらどうしよう」  彼女が笑う気配がした。蝶《ちよう》の羽ばたきのように微《かす》かに。 「……あなたは幸せに育ったのね。百の幸せを当然のように思えるくらい」  私は、と彼女はつづけた。淡々《た人た人》としていた声が、想いを含《ふく》んで深く優しく愛《いと》おしさを増す。  彼女が舞った�想遥恋″。呆然と泣いた楸瑛。彼女も楸瑛も、もう互《たが》いに気づいている。 「私は、何ももっていなかったから。たった一つの幸せだけでも、時々信じられないことがあるわ。失うのが怖《こわ》いから、私は一つで充分。《じゆうぷん》愛するだけで充分。ほんの少し私に笑ってくれたら、それだけで胸が詰《つ》まるわ。幸せが、怖いの。幸せになっていいと、言われたことがなかったから。今も怖いわ。誰かを好きになるなんていう幸せが、『私』に許されるのかしら……? もし夢なら、醒《セー》めたとき、きっともう私は生きていけない」うっとりするようなその優しい声は、髪《かみ》の一筋ほども楸瑛のためではない。  すべては、彼女の愛する人のために。それが、なんだか悔《くや》しかった。 「愛してるわ。誰より愛してる。何もなかった私には、それだけで充分『幸せ』だわ……」  眠《ねむ》りに落ちながら、楸瑛はムッとした。少しくらい、自分のほうを見てくれてもいいのに。 「……私は、そんな風には思えない。だから逃げる。これからだってひたすら逃げまくる」 「いいんじゃないの。人それぞれだもの」  くすりと、彼女が笑う声がした。楸瑛が引き出せたのは、たったそれだけだった。   −翌朝、目覚めた楸瑛に残されていたのは、大童の温石と握ったままの扇、きちんと畳《たた》まれた上衣。やけにジグザグの個性的な縫《ぬ》い目を見たとき、夢ではないと知って安心した。  誰にも言えなかった。取り繕うのばかりうまくなって、逃げつづけていたら袋小路《lで.、ろこうじ》にいた。 『いいんじゃないのし心の奥に、何年も何年もかけて重く沈殿《ちんでん》していった徹《二ご》りが、涙と一緒《いつしよ》に溶《と》けていた。  その後、国試に及第《き紬うだい》した楸瑛が後宮で会った彼女は、楸瑛のことをまったく覚えていなかった。落胆《らlくたん》した反面、あの情けない自分を忘れてくれていて正濱ポッとした。いつも敬語を崩《くず》さない完璧《かんぺき》な有能女官の、あんな砕《l・、だ》けた口調を知っているのはきっと自分だけだろう。                                                                                                                                                                                       t.ょーL  そして彼女は相変わらず、ただ 「人の誰かを想り宰雫。楸瑛ほ、昌・それが嬉《�.一_》しかった。彼女にちょっかいをかけて、楸瑛は何度も何度も確認する。彼女が一途に誰かを想いつづけていることを。誰もそのl想いを揺らすことができないことを。  決して楸瑛の手に落ちない高嶺《たかわ》の花は、義姉《丸ね》のよう。  決して叶わない想いを胸に秘《!?−》めつづける様は、自分のよう。  楸瑛にとって彼女は義姉であり、自分自身だった。彼女に甘え、轍環は自分の姿を確かめる。  どうか少しでいいから振り向いてほしい、いいや、誰にもなびかないでほしい。そんな身勝手で相反した願いから、鰍喋はついちょっかいを出して毎度彼女を怒《おこ》らせることになる。   ー自分にチラともなびかないことに安堵《あんご》し、少しだけ悔しく思う。  時々楸瑛はあの時の扇を取り出し、彼女の言葉を思い出す。 『愛してるわ。誰より愛してる。何もなかった私には、それだけで充分 「幸せ」だわ……』  ただ一度だけ耳にした、他の男に向けた優しい優しい声を、何度も繰《.\》り返し思い出すのだ。  開[� 「一夫一婦も勿論《もちろん》ですが、藍家《らんけ》の姫《ひめ》の入内《じゆだい》にも反対ですな」    も人かしよう      おうき   み!?∵ん  しわ  門下省の長、旺李は眉間に敏を刻んだ。 「あの家が、何のもくろみもなく姫を送って寄こすはずもない。それがわかるまでは、投げられた餌《えき》に飛びつくような真似《まね》はやめたほうがよろしいでしょう」劉輝《りゆうき》は心底旺李に感謝した。旺李が反対すれば、しばらく棚上《たなあ》げにはできる。  ばあっと明るく旺李を見ると、旺李の強い眼差《まなぎ》しとぶつかった。そこに負の感情は一切《レつさい》なく、劉輝の覚悟《かくご》を問うような目だった。旺李は静かに息を吐《は》いた。 「……主上、《し紬じよう》一度申し上げたかったことがあります。なぜそこまで彩《さい》七家に信をおくのです」 「…・旺季殿《ごの》?」 「あの二家が、あなたや国のために何かしてくださったことが一度たりとてありますか。藍家はいまだ藍姓官吏《らんせいかんり》を戻《もど》さず、紅家《こうけ》は当主のためだけに簡単に黄陽《きよう》の機能を停止させる」劉輝は息を呑んだ。 「あなたが�花菖蒲《はなしようぶ》″を下賜《かし》した二人も、ここしばらく平気でお傍《そば》から離《はな》れている。事情など下の者には関係ありません。�花″の不在によって、現在あなたへの臣下の信頼は軒並《のきな》み低下の一途を辿《たど》っている。そのことも当然おわかりでしょうな」 「…………」 「それでも主上のお目には、勢力を誇る彩七家しか映っておられないのですか。なぜ私ども他貴族のことを、何一つ信用してはくだきらないのか。私どもの諫言《かんげん》も、忠告も、今まであなたはすべて無視なさってきた。すべてをあの若い側近二人と決め、頭から門下省をはねのけた。それがどれほど私たちの誇りを傷つけ、情けない思いをさせられてきたことか。私たち貴族は、彩七家と違って王に信用されなくては存在価値などありはしないというのに−」劉輝は言葉を失った。旺李は立ち上がり、悠舜《畑うし時ん》を見た。 「……あなたが、何のしがらみもない鄭尚書令を据《ていしようしよ∫lいす》えたときは、正直嬉しく思いました。ですが、覚えておかれよ。彩七家か丁1−特に紅藍両家と渡り合うには、あなたはあまりに幼すぎる。紅藍両家を知らなさすぎる。時と場合に応じて王を操《あや 「》り、利用し、見捨て、裏切る−あなたはそれをご承知の上で、取り込もうとなさっておられるのではありますまい。今のあなたでは到底《と・エJい》勝ち目はない。あなたは王なのです。この国をあまねくしろしめし、万民《ぼんみん》を肩《かた》に負っている。一度の誤りが惨事《きんじ》を招くこともある。……そのとき後悔《こうかい》するのでほ遅《おそ》いのです」それは嘘偽《うそいつわ》りのない、真撃《しんし》な言葉だった。  旺李はそれだけを告げると、宰相《さいしよう》会議の場をあとにした。  それは確かに一つの真実で、劉輝は顔を歪《ゆが》めた。何も反論できなかった。   −その通りだった。       ・翁・翁・  一頭の馬が、貴陽を目指してバカバカと気楽な蹄《ひづめ》の音を立てていた。馬商人が目の色を変える見事な軍馬だったが、楽々と騎乗《きじよ、ワ》する人物はあまりにも馬と不釣《、hつ》り合いな少女だった。まだ二十歳にもなっていない娘《むすめ》で、実用性を重視した身軽な旅装は長旅のお陰《かげ》でだいぶ薄汚《うすよご》れている。髪も顔も砂挨《すなぼこり》まみれだったが、本人は気にする様子もない。よく見れば結構整った目鼻立ちをしているのだが、容貌《ようぼう》に無頓着な《むとんちやく》せいで十人並になっている。  少女はふと手綱《たづな》を引いて馬を止めた。紫州《ししゆう》に入ってからまだごく僅《わず》か。目的の王都までほいくら彼女の騎乗の腕《うで》をもってしてもあと半月ほどかかる。  少女はチラリと周りを見回した。見晴らしのいい街道《かいどう》には誰もいない−ように見える。 「……あたしをつけてきてる人は、どこのどなた?」  ややあって、周囲に不穏《ふおん》な気配を漂《ただよ》わせた男たちが影《かげ》のように現れる。  少女が批《まなじり》を険しくし、手綱をつかんだとき、やたら呑気《のんき》な声が聞こえた。 「あーあ。よってたかって一人の女のコ囲むなんざ、かっこ悪いぜ〜」  少女はぎょっとした。�まったく気配を感じなかった。  徒歩でその場にふらりと現れた男も、少女を見て目を丸くした。 「おあっ!?姫さん!?いや……似てるけど……」  少女はきらりと目を光らせ、男を一瞥《いちベつ》した。伸《の》びかけの無精髭《ぷしようひげ》、梶《こん》と左頬《ひだりはお》の十字傷−。  少女は即断《そくだん》した。旅装をひるがえし、すぐさま手綱を引いて馬の脇腹《わきばら》を謝《ナ》った。 「通りすがりの正義の味方さん! 危ないところ助けてくれてありがとう! じやつ」  素晴《すぼ》らしい速さで一目散に逃《に》げを選んだ少女に、燕青《えんせい》は唖然《あぜん》とした。行動は似てねー! 「ええおい!?まだなんもしてね−」  影のような男たちは燕青に構わず、少女を追うことを選んだ。  燕青は舌打ちし、男たちを片付けにかかった。  馬で逃げた少女は、距離《きよl)》を測るために一度燕青と男たちを振《ふ》り返った。そして瞭目《ごうもく》する。  遠目からだが、あの男たちの動きー少女は目を疑った。そして▼l1.度だけ馬に鞭《むら》を打つ。 (まさか……でも……。……楸瑛見様に報告の必要ありね)       ・翁・報・  御史台《ぎよしだい》の長・御史大夫を務める葵皇毅《きこうき》は、山のように椅み上がった書翰《しよかん》すべてに目を通し、決裁の判を押していった。そのほとんどが陳情《ちんじよう》か裁判関係だ。監察《かんさつ》という職務に関連して、御史台は裁判にも関《カめ》わる。法を司る刑部《つかさどけいぶ》と監察を司る御史台、高等裁判を受け持つ大理寺《だいりじ》の三部署で相互《そうご》に協議し、一つの仕事をしているようなものだ。  大体は淡々と処理をしていく皇毅だが、たまにその薄《うす》い色合いの日が留まることもある。常に一人で仕事をする皇毅だったが、もし傍に誰かがいてその書翰をあとで盗《ぬす》み見たとしても、どこが引っかかったのかわかる者はほとんどいない。わかるとしたら、すべてが終わったときだ。皇毅が目を留めた金物屋の陳情があとで贋金《にせがね》事件に発展したことも、白砂混じりの塩の陳情が官吏の捕縛《ま∫く》に繋《つな》がったことも、発覚してから気づくのだ。  皇毅は今日も何度か目を留めた。そのなかのいくつかに、彼は 「却下《きやつか》」の印をしるした。こうして彼によって打ち切られ、闇《やみ》に埋《う》もれていく事件があることを知る者も少ない。  幾通日《いくりうめ》かの書翰に目を留め、眉間に敏を一本刻む。何度か読み直し、不機嫌《ふさげ・人》さが増す。 (……厄介《やつかい》なのがあるな。さて、どうするか……)  そのとき、入ってきた下官がある人物の来訪を告げた。  皇毅の無感情な双膵《そうぽう》に変化はなかったが、微《かす》かに目尻《めlけしり》が反応した。 「隣室《りんしっ》に通せ」  重要な書類だけを鍵《かぎ》付きの抽斗《ひきだし》に放り込み、立ち上がる。重要な来客専用の隣室に皇毅が入ると、先に案内された壮年《そうねん》の男は立ち上がって礼をとった。皇毅は男に椅子《いす》を勧《すす》めて自分も向かいに座る。官位は皇毅の方が上だったが、年配であることから敬語になる。 「お珍《めずら》しいことですね、孟兵部侍郎《もうへいぶじろう》」  武官の任命権を一手に握《にぎ》る兵部の次官・孟兵部侍即は微笑《はほえ》んだ。けれどいつもは穏《おだ》やかなその双絆に、僅かな焦燥《しよ一つそ、フ》の色があるのを皇毅は見て取った。 「本題をお伺《うかが》いしましょう」  一切前置きなしの若い大官に、孟侍郎は相変わらずだと苦笑いした。−けれどそのほうがありがたい。孟侍郎は本題に入った。 「葵大夫……もしかしたらあなたならすでにご存じかもしれません。このところ各地で暗躍《あんやく》している兇手が《きようしゆ》いることを」皇毅は何も言わなかったし、眉《まゆ》一つ動かさなかった。彼が知っているのか知らないのか、孟侍郎はまったく読めずに内心困惑《こんわく》する。仕方なしにそのまま話を続ける。 「それに関して、いくつか情報を入手いたしました。まだお話しできないこともあるのですが……どうかお役立て下さい」  皇毅は眉間《みけ人》に微かな紋を寄せた。孟侍郎は深い溜息《ためいさ》とともに告げた。 「……藍家の姫の御身《おんみ》が危ないやもしれません」       ・翁・翁・   −かちん、かちん、とネジを巻くような音がする。  それは彼女にしか聞こえない音。彼女はずっと、その昔が怖《こわ》かった。  幸せになってはいけない。お前にそんな資格はない。その昔はそう告げているようで。   −いつかその音は、必ずやむ。  その時《ヽヽヽ》がくる前に、このまま、ひそやかに、愛する人たちの優《やさ》しい記憶《Jlおく》とともに、どこか人知れず息絶えることができたなら、それこそが自分にとっての最高の『幸せしなのだろう。  わかっていながら、ズルズルときてしまったのほ、彼女のー甘さと弱さと�。  彼女はもう一つの原因を思い浮《−【ノ》かべ、こめかみに青筋を浮かべた。 (どうしていつもいつも、あんのボウフラ男ははかったようにー)  F珠翠殿《しゆすいどの》、白百合《しらゆり》のような手にそのような無骨な短刀は似合いませんよ。海業《かいごう》を生けるため?そんなことなら私に命じてください。あなたのためにいつだってここにいるのにh−∵」のような真夜中に、どこへお出かけですか? お供しましょう』『珠翠様あああ! 新入り侍女《じじよ》が藍将軍の毒牙《ごくが》にっっ!!すぐにいらしてー��え!?なんですの珠翠様! おやめになる!?珠翠様がいなくなったら誰が藍将軍を撃退《げきたい》できるんですか!!ダメです絶対ダメです。ささ、こんな退出届なんか破って屑籠《くずかご》にポイですわ。えいっ』……ことごとく、ことごとくことごとく! あの男は邪魔《じやま》しくきってくれた。  けれど、今なら、邪魔をする者はいない。  一族に見つかった。きっともうすぐ、止まってしまう。−止められてしまう。 (その前に−)  自分で幕を引こう。愛した人たちを愛したまま。自分には分不相応な幸せの記憶とともに。  自分が自分であるうちに。この錐《さhソ》で喉《のど》を突《つ》けば、それで終わりだ。さあ�。 「…・珠翠、いるか? 少し話し相手になってくれぬか」  扉《とげら》の向こうから聞こえた王の少し心細げな声に、珠翠の手は止まった。 「珠翠〜……珠翠〜いるんだろう。入ってもいいか?…‥な、何か怒《おこ》っているのか?」  何度も呼ぶためらいがちな声に、覚えず、珠翠の目から涙が《なみだ》あふれた。  |寂《さび》しがり屋の王。頼《たよ》られ、心の拠《よ》り所にされているのを知っている。  一緒《いつしよ》に刺繍《ししゆう》をして、二胡《にこ》を弾《ひ》いて。秀麗や邵可《しゆうれいしようか》のことを話したり、楸瑛や繚仮《こうルう》の話をしたりするとき、いつも何かを我慢《がまん》しているような王の顔が、少しだけゆるむ。王であることから解放されるはずの内宮《ないlぐう》で、劉輝が自由に心を吐露《とろ》して話ができる相手は、もう珠翠しかいない。  姉のような気持ち、とは、こういうことをいうのかもしれない。  珠翠にとっても、王と過ごす時間は、のんびりと心に優しく。 (も、もう、少し……もう少しだけなら……)  きっと、もう少しだけなら、猶予《ゆうよ》はある。  完全にこの音が止まるまでは、こんな自分でもおそばにいられる。  珠翠は手にした錐《さl,》を、震《ふる》えながら抽斗《ひさだし》に仕舞《しょ》いこんだ。すぐに化粧《!?しよう》を直し、身支度《み▼一r+.だ・\》を調える。 「申し訳ありません、主上。今すぐにお開けいたします」  王がホッとする気配が伝わってくる。珠翠は扉を押し開けー。  かち、ん   ……。  耳元で鐘《かーユ》を叩《たた》かれたような、ぎょっとするほど大きなその昔に、珠翠の頭が真っ白になる。 (えーl1−?)  半分開いて止まった扉に、首を傾《カし》げながら王がもう半分を引き開ける。 「実は今日は連れがいるのだ。ナイショにしてくれ。リオウといってな−」   −リオウ。  磁石のように、抗《あらが》いがたい力で珠翠のHは否応《いやおう》なく少年に吸い寄せられる。  目眩《めまい》がするほど深い深い、黒檀《こノ1た人》のごとき双障。それ、は−。 (ああ……)                                                                                     ヽ・ーでノ  かちん�と珠翠の中で絶望の音が一つだけ響《一——rl▼r》き、そして、……止まった。       ・器 ▼器・  宵太師《しようたしlL》はいつも乗《そう》と茶《き》の三人できていた高楼《こうろう》に、今夜ものぼった。  月の満ち欠けを、霄太師は永遠に近いほど見てきた。  いつか茶怒洵が《えんじ浄ん》糸のように細い弦月が美しくて好きだと言い、宋隼凱《しゆ人がい》が大福みたいな満月がうまそうで好きだと言った。お前は? と訊《き》かれて、 「はあ?」と眉《ま陣》を上げた。  夜になれば勝手に上り下りして、勝手に満ち欠けする自然現象に、好きも何もあるか。  そんなことは考えたこともないと言うと、二人に 「風流を知らない」と馬鹿《ぼか》にされた。寒にまで笑われたことが死ぬほど悔《くや》しくて、それからこっそり月を眺《なが》めるようになった。  ……あの月の満ち欠けのように生まれては死ぬ人間をずっと見てきたのに、なぜだろう。  あのころ、確かに、共に過ごす時が永遠につづくように思えた。  それはまるで、人間のように。  そして胃太師は振り返る。  コロコロと、二つの鞠《まl、リ》のような物体が転がっている。 「……黄葉《こうよう・》の力を借りたとはいえ、よく貴陽に入ってきたものだ。宋並みの根性《こんじよう》だな」  ……この二匹《ひき》をそばにつけても、紅秀麗の運命は変わらない。むしろ加速するだけだろう。  それでも、黄葉は願いを叶《かな》えた。自分もまた、叶えてやるべきだろう。  あの娘《むすめ》自身の運命は変わらなくても、あの娘が願う未来の一助にはなるかもしれないから。  酒瓶《さかげーん》片手に高楼をあがった宋太博《たいふ》は、霄太師が追っかける黒と白のモコモコに首を傾げた。 「おい宵。なんだそのちびっこいフワフワは?羽羽殿《ううどの》の前世か?」 「ちょっとうまいこというんじゃない宋! いいから捕《つか》まえろ! 酒で釣《つ》れ! こんちくしょう。せっかく良くしてやった私の顔面を蹴飛《けと》ばしやがって。何様だ!!服従させてくれる!」 「マジか? やるじゃねぇか。よし、オレ様がかばってやる。こいこい、クロ・シロ」すると、本当に黒と自のもふもふっとした物体は宋太博のところに転がり、その屈強な両肩《くつきようりようかた》に飛び乗った。まるで等太師を小馬鹿《こぼか》にするようにぴょいこら酢《よ》ねる。  零太師はピキビキと青筋を浮かべた。 「……ふ、宋。私との友情を思うなら、今すぐその二匹を引き渡《わた》せ。鍋《なベ》でぐつぐつ煮込《に一一こ》んで、出し汁《…レる》を川に流して残りは切り刻んでシオカラにして畜生《ちくしよう》に食わせてくれるわ!!」 「お前のほうがどう見ても悪者だぜ。こんなのが宰相《さいしよう》やった後を任されて、悠舜《ゆうし時ん》も大変だな」宋太博は両肩のフワフワを雑に撫《な》でながら、にやりと笑った。 「お前の口から『友情』なんつー言葉がでるとはな」 「……つ!!馬鹿《ぼか》か! 聞き間違《まちが》いだ! ボケたんじゃないのか。年寄りは耳が遠くて困る」 「そぉかよ。滅多《めつた》に手に人らねぇ超《ちよう》イイ酒もってきたんだが、持って帰るわ。じゃな」 「待てい」結局、宵太師は射殺しそうな目で二匹の鞠を睨《にら》みつけ、酒をあおることになった。  二匹の鞠は涼《すず》しい顔で(害太師にはそう見えた)諷々《ひようひよう》と宋太博がくれた美酒をなめている。 「おお、気に入ったぜ。このクロとシロ、オレ様がもらってやってもいいぞ」 「…・こいつらにクロとシロなんて名前つけるのは後にも先にもお前くらいだよ」  苦虫をかみつぶしたような顔をしつつ、じろじろと鞠二匹と宋太博を見た。 「……ふん、いいかもな。どうせ勝手にうろちょろするだろう。しばらくお前が預かっとけ」  宋を守る魔除《よよ》けにもなる�とは、口が裂《亀、》けても宵太師はいわなかった。  管順胤一.‥〜僅芸  このところ、朝方の邵可邸では気合いの入った声が響くようになった。 「でぇえええええいっっっ!!」  ビダソ〓‥という凄《すき》まじい音とともに、丸めた生地《きじ》が豪快《ごうかい》にまな板に叩きつけられる。 「あのくそ清雅《せいが》! 嫌《も.や》み! 高飛車っっ‖‥腹男!!人でなし! ろくでなし! オレ様野《や》郎《ろう》! あんたなんかこうしてやるこうしてやるこうしてこうしてこうして   っっっ!!」ド軸緯カドカ。‥と見事な拳技鉢次々生地に決まる。さらに篭くり返.昔てまな板に叩きつけ、麺棒でこれでもかというほど殴りまくる。みるみる生地は素晴らしく薄くのびていった。  扉からそっと見ていた静蘭《せいらん》と邵可はゴクリと生唾《左まつぱ》を飲みこんだ。……怖《こわ》い。 「み、見事な技《わぎ》ですお嬢様《じようきま》……あ切拳の入り方といい、無駄《むだ》のない麺棒の打ち方といい……」麺棒での戦いなら、燕青とも互角《ご力く》に戦えるかもしれないと半ば本気で静蘭は思った。 「うん……私の現役《げんえき》時代も真っ青だよ……」 「ほ?」 「いやいやなんでも。いやー……すごいね清雅くん効果は」  鬼気迫《さきせま》る怒りの連続攻撃《こうげさ》と、おりやあ! チョアー‖‥などという格闘家《カくとうも》のような男らしい掛《か》け声に、なんだか娘が遠くに行ってしまったようでちょっともの悲しくもなるが。 「あれでこそ秀躍だよ」  目指すものを手に入れるまでは、人はあまり悩《キや》まない。つかんでからが大変なのだ。悩むのも、失敗するのも、力が足りなくて落ち込むのも当たり前だ。それは悪いことではない。前に進むために必要なこと。つらくても苦しくても、必死で顔を上げて、壁《かバ》を越《こ》えていかなくては、いつか焦《−■》がれ、夢見たものもこぼれおちる。つかんだままでいることは、とても難しい。  壁の前で落ち込んで沈《しず》むよりも、なにくそと怒って、力にして、よじのはるはうがいい。 「元気になって、よかった。ね、静蘭」 「……そ、そうですが……なんだか、お嬢様がどんどん壊《こわ》れていってるような」 「そんなことないよ。かわいいものじゃないか。もともと紅家《、フおり》は口も性格も悪い家系だし、秀麗が例外なんだよ。むしろ私は安心したな。よかった。ちょっと黎深《llいしん》の姪《めい》に見えるよね」 「………………それは喜ぶべきことなんでしょうか…………」 「秀鹿は変わってないよ。苦から怒《おこ》りん坊《ぼう》だったじゃないか。私もよく怒られたし。それに奇《ヽ−》病騒《げようさわ》ぎの時もそうだったろう。『仕方ない』を、秀麗は最後まで受け入れなかった」昔から、『仕方ない』という言葉を口にしない娘だった。それがあきらめの言葉だと、もう一歩も前に進めない言葉だと、感じていたのかもしれない。 「あれでいいんだよ。怒れなくなったら、負けだから。誰に対しても、どんなことでもね」  昔から秀麗はよく怒った。けれど官吏《かんり》になってからほ少し違《ちが》った。  夢である官吏になって、認めてもらうために、秀器は自分でも知らず知らずのうちに無理や我慢を重ねてきた。最初の官位が州牧《しゆうぼく》という責任ある立場だったこともあるが、彼女はできるかぎり完璧《かんペき》であろうとしてきた。『女官吏などいらない』−そう否定されないために。  だからいつも張りつめた糸のようだった。茶州《さしゆう》でそれを緩《抽る》めてくれたのは燕青と影月《えいげつ》だった。  けれど自分でそれができるようにならないと、先には進めない。何かを抑《おき》えているうちは、本来もつ力のすべてを発揮することはできない。  図《はか》らずも陸《り・\》清雅という存在が火をつけた。 「見てるといい。これからが秀麗の本領発揮だよ」  そうこうしているうちに、今度は秀願は分厚い魚庖丁《さかなぼうらょう》をとりだした。  ッーツと刃先《ほさき》に指をすべらせ、鬼女《きじよ》のごとく目を光らせる。 「ふっ……見てなさいよタカビー清雅。いつかそのべらべら良く回る口と一緒《いつしよ》にあんたをこのお魚さんのように姐板《まないた》にのせて料理してやるわ。そう、こんなふうに! ホワチャアー〓‥」気勢一発、ドカッと魚の頭を一刀両断する。  誰も文句のつけようもない、素晴らしい庖丁さばきだった。まるで本物の鬼女のようだ。  さすがの邵可も微妙《げみよう》に現実逃避《とうひ》をした。 「…………ホワチャうて、今はもう誰も言わないよね…………」 「…………日蔀《だんな》様、問題はそこじゃありませんから。本っ当にアレでいいんですか?」 「静蘭。見くびらないでもらいたいね。私はどんな娘でも心から愛せる自信があるよ」 「うまいこと問題をすり替《か》えてもごまかされませんよ旦那様。愛について訊《き》いてるんじゃなく、お嬢様について訊いてるんです。私の日を見てハッキリ答えてください」邵可は内心舌打ちした。さすが静蘭、適当なことを言ってうやむやにしようとしたのに、こと問題が秀麗に及《およ》ぶと納豆《なつとう》も裸足《はだし》で逃《に》げる粘り腰《ねぼごし》を見せる。たとえ邵可でも引き下がらない。  すったもんだしていると、秀麗が気づいた。 「あら父様、静蘭、おはよう。ご飯、もう少し待っててね」  にこっと明るいその笑顔《えがお》は、いつもの秀貨である。が!。 「−もうちょっとでスッキリするから。うふ。今日も爽《さわ》やかに一円を始めたいものね」  キラーソ、と庖丁が朝日を弾《はじ》いて輝《かがや》き、その光が秀麗の表情を不気味に隠《かく》す。 「さあ! 今日もバリバリ頑張《がんぼ》るわよー!」  それは少し前の、カラ元気な言葉ではなかった。それは静蘭も嬉《うれ》しいと思う。けれど。  �お嬢様を怖いと思う日がくるなんて、静蘭は思いもしなかった。       ・翁・器・ 「……おわー、今日も大量だな」  蘇芳《すおう》は秀麿がもってきた『弁当』を開け、しみじみ呆《あき》れた。重箱に山ほど春巻《はるまき》やら焼売《し睡うまい》やら  餃子《ぎよっぎ》やら焼餅《やきもち》やらが詰《つ》まっている。全部生地をこねて叩《たた》くやつだ。いかに秀麗が何かを叩いて叩いて叩きまくりたかったのかがありありとわかる。 「タソタン! まだお昼の時間じゃないわよ。ちゃんと読み終わったの?」  大量の法律関連の書物に埋《う》もれ、姿が見えない秀腱からくわっと一喝《いつかつ》が飛ぶ。  秀願に与《あた》えられたのは御史台でいちばん小さな室と、監察《かんさつ》御史という地位、そして榛《し人》蘇芳という裏行《みならい》一人だった。ちなみに口当たりも微妙に悪く、夏に近い今はちょっとじめじめする。lそれでも、休憩兼仮眠《きゆうけいけんかみん》用の続き部屋と二室になっているそこは、秀麗にとって決して居心地《L二二ら》の悪い場所ではなかった。狭《せま》いからなんでもすぐ手が届くし、備えつけの書棚《しょr左》は広く、使いやすく、天井ま《て人じよう》であって気に入っている。蘇芳と一緒に掃除《そうじ》をし、換気《カ人さ》をし、使い勝手よくものを整理し、花を一輪飾《かざ》って眺《売ポ》めたとき、秀腱はこの新しい小さな住処《寸一′ーか》をとても気に入った。 「読んだけど、覚えられるわけわーよあんなの。つかさ、なんであんたこそす七に大雑把《おムでー・.ノ〓》な法律網羅《もーリ・り》してんの?ねぇ、ナニモノ?どんなお嬢さんなのキ、、、」 「タダモノよ。国試に出るから勉強してただけよ。官吏なら当然問われる知識だもの」親の金で官吏になった蘇芳は目を丸くした。……ということは阿試に及第《さゆうだい》するためには、蘇芳が今苦心惨憺《くしんきんたん》で読んでいる何十冊もの分厚い書物を、全部頭に叩き込まないといけないのか。 「それに州牧として茶州にスッ飛ばされた時、茶家の裁判が大義にあって、それに対応するために実践《じっせん》向けも突貫《と.つかん》で詰め込んでもらったのよ。みんな暇《けま》さえあれば教えてくれたの」 「……てことは、あの杜《しし》影月ってやつも?」 「ええ。影月くんの状元《ビようげ人》及第はダテじゃないわよ。律令《り∴ノりよlつ▼》・司法・兵法《へしlはう》も網羅してあるわ」 「兵法?」 「そうよ。昔っから有名な文官って戦の陣頭《いノ1きじんとう》指揮もとれば、軍師も務めてるでしょ」 「そういやそうだよな。なんで?将軍とかいるのに」 「大儀《たいてい》その軍が反乱して戦になるからよ。そしたら文官が将軍職につかざるをえないでしょ。それに文官が兵法を理解しないで、国防を軍に任せっきりにするのがいちばん危険なのよ」                           ヽノユ  蘇芳は首を捻《ァ1..丁》った。 「…・なんで? 文官なんだから別にわかんなくてい一んじゃないのー!」  沈黙《ち人も,、》の後、書物の山の向こうで本が閉じられる音がした。別に溜息《ためいさ》などは聞こえてこない。  蘇芳がいくら馬鹿《ぱか》っぶりを示しても、秀麗が嘆息《たんそく》したことは一度もない。 「タンタソ、すごく有名な兵法の格言を教えてあげる。簡単だから、忘れないわよ。『凡《およ》そ用兵の法は、国を全《まつと》うするを上と為《じような》し、国を破るはこれに次ぐ。          軍を全うするを上と為し、軍を破るはこれに次ぐ。          旅《hり・よ》を全うするを上と為し、旅を破るはこれに次ぐ。          卒《そつ》を全うするを上と為し、卒を破るはこれに次ぐ。          伍《ご》を全うするを上と為し、伍を破るほこれに次ぐ。   是《こ》の故《ゆえ》に百戦百勝は善の善なる者に非《あら》ざるなり。   戦わずして人の兵を屈《′う》するほ善の善なる者なり。           h  どこかで聞いたことあるんじゃない? はい、訳すと?」  確かに、どこかで聞いたことがあると思った。考え考え訳してみる。これくらいなら−。 「……戦ってのは、敵国を無傷のまま降伏させるのが上策で、戦って勝つのは下策。敵軍団を無傷で降伏させるのが最善で、戦って勝つなんてのは話にならない。旅団、大隊、小隊も同じ。だから百戦百勝が最善じゃなくて、戦《ヽ》わ《ヽ》ず《ヽ》に《ヽ》敵《ヽ》を《ヽ》屈《ヽ》服《ヽ》さ《ヽ》せ《ヽ》る《ヽ》の《ヽ》が《ヽ》垂《ヽ》尚《ヽ》に《ヽ》優《ヽ》れ《ヽ》た《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》……つてフ」蘇芳の意訳で非常にわかりやすくなった。秀麗は蘇芳の顔つきを見て、笑った。 「そう。いっとくけど別に理想論じゃないわよ。昔から有名な将軍や軍師がいくつも実践してるもの。知恵《ちえ》で道を切り開くのが統治の常道。簡単に戦を起こしたり、民《たみ》の負担を押してまず軍備増強なんてのは、最低の指導者ってわけ。でも国防を軍に丸投げすると、非戦は難しくなりがちでね。職業柄《が・り》、敵には武力で勝つのが当然と思う人もいるから。……文官でもね」蘇芳は、奇病騒ぎの時に、秀麗が派兵を拒否《きよわ》したという話を思いだした。十八歳でだ。  それは凄《すご》いことなのーだろうが、何もかもが早すぎる《11ヽ11ヽ111》気もした。普通《…? り》の少女なら当然通るはずの恋愛《llんあい》や娯楽《ご、? 、》の寄り道に臼もくれない。蜜菓子《みつがし》のような甘《あま》い少女の時間を切り捨て、ひたすらすべてを政事に注いでいる。どう考えても尋常《じん‥し上てつ》じゃない。もっと不可解なのは、彼女の周りの大人たちがこんな秀麗を当然のように受け入れてることだ。なぜおかしいと思わないのか。人生を駆《カ》けて駆けて駆けて�まるで尽《つ》きる前にひときわ輝く偵燭《ろうそく》のようなのに。  心の底で彼女は本当は何を考えているのだろう−このごろ蘇芳はそんなことを思う。 「だから、文官だからこそ兵法に通じる必要があるわけ。それを使うためじゃなく、どうしたら使わないですむか考えるため。文官だから軍事に責任がないなんていうのは大間違《おおまちが》いなの」 「……じゃーさ、あんたの考える理想の指導者ってどういうひと?」秀麗は目を瞬《またた》いた。このごろ蘇芳はよくそんなことを訊く。 「そうねぇ……蒼玄王《そうげんおう》の後を継《つ》いだ、蒼周王《そうしゆうおう》って知ってる?」 「? 聞いたことはある、ような一」 「蒼玄王の後を継いで国を平定した後、食糧《しよくhリょう》と財貨を貧しい人々に開放して、すべての武器を溶《と》かして農具や釜《かま》に鋳直《いなお》し、兵車は農業用に民に下げ渡《わた》し、すべての軍馬と牛を野に解き放って、兵士を兵役《へいえヽ、》から解放して家に帰し、二度と戦をしないことを行動で天下に示した人よ」 「……まさかそれ、今この時代にやれってフ」 「そうじゃなくて。つまり蒼周王は戟なしで国を治めてみせるっていう覚悟《か′ゝ】》で玉座についたってこと。その姿勢の話。実際に彼の治世では一度も戦が起こってないわ。だから軍神・蒼玄王より影《かげ》が薄《うす》いの。でも私は好き。戦を起こすのは簡単だわ。勝敗は五分。終息は難しい。百年の平和はさらに至難の業《わぎ》よ。だからこそ、それができる人が最高の為政者《いせいしや》だと思ってる。蒼周王と同じことをやれって言ってるんじゃないの。彼のように、まず武より知恵で国を守りきる覚悟と誇《はこ》りをもって国政に臨《のぞ》むべきだと思うってこと。でないと絶対平和は続かないもの」秀麗は難しいことを難しく言わない。だから蘇芳は秀麗の話を聞くのが結構好きだ。  蘇芳が何かを言おうとしたとき、弾《はじ》けるような笑い声が扉口《とげ・りぐら》で上がった。 「へえ。これはこれは面白《おもしろ》いご高説を聞かせてもらったな。別名タワゴトつてやつ」  途端《とたん》、秀麗のこめかみに青筋が浮《う》いた。蘇芳は内心ゲッとうめいた。  すっかり取り繕《つくろ》うことをやめた清雅は、いかにも尊大な足取りで室《へや》に入ってくる。  蘇芳は戦闘《せんとう》開始を察してそろそろと身を退《ひ》いた。二人とも蘇芳より年下だが、冗談《じようだん》でも仲裁《ら紬うきい》なんかしたくない。所詮庶民《しよせんしよみん》は、災害時には机案《つ▼くえ》の下に避難《け一な人》するのが精一杯《せいいつばい》なのだ。  秀贋が冷ややかな目で清雅を睨《ね》めすえた。蘇芳や静蘭には絶対見せない怖《こわ》い顔である。 「あんたなんかてんでお呼びでないわよ清雅。お室をお間違《よちが》えになったんじゃございませんこと? 盗《ぬ†》み聞きなんて最低だわね。とっとと出てって私の目の前から永遠に消えてちょうだい」 「年上には敬意を払《はら》って清雅様と呼べよ。オレを呼び捨てにできるのは少ないんだぜ新入り」 「ふん、あんたが自分で『清雅で結構ですよ』って言ったんじゃないの。前言撤回《てつかい》するなんて、噂《うわき》の陸清雅も度塁が小さいわね。別に私は名前ごせきでガタガタ抜《血》かしたりしないわよ。清雅サマって全然大したことないのよオーホホホって触れ回るネタができてむしろ嬉しいわ」バチバチッと青い火花が室内に飛び散りまくるのが蘇芳の目には確かに見えた。初夏だというのに室温も急激に低下していく。花瓶《かげん》の葉っぱに霜《しも》が降っていても蘇芳は驚《ょどろ》かない。 (ちょ、超《ちよ・フ》こえー……。セーガもだけど、お嬢《りしよう》も負けてねぇとこが余計怖いんですけど)  秀麗を 「甘ちゃん」と評したことを撤回しようかと本気で思っている今日この頃《ごろ》だ。  確かに耐性《たいせい》つけたら真っ向から清雅に対抗《たいこう》できるかもしれないとは言ったが、こんなに早く適応してガチソコ喧嘩《げんか》を繰《く》り広げるようになるとは思わなかった。 (つか、なんでセーガもいっちいちちょっかいかけにくるかな!…‥)  今のところ、秀麗から清雅に喧嘩を売りに行ったことは一度もない。売られたらことごとく買って叩き返すとはいえ、火種を景気よくばらまきにくるのはいつも清雅のほうだ。 (しかも、もんのすげー凶悪嬉《きようあくうさl》しそうな顔してイジメにくんだよな……人としてどうよ)  けれど勿論《もちろん》長いものにはまかれろ人生な蘇芳はそんなことを口に出していったりはしない。  清雅は応《こた》えた様子もなく、優雅《ゆうが》な仕草で手近な椅子《いす》に勝手に座る。頬杖《ほおづえ》をつき、薄い唇の端《くちげるlはし》を少しっりあげるように笑う。蘇芳日《いわ》く 「凶悪嬉しそうな顔」だが、自信家で偉《え・り》そうで人を見下すその笑みがこれほど似合う男を秀麗は知らない。しかも彼のいちばん魅力的《みりよくてき》な顔がそれなのだから、陸清雅という人間がわかろうというものだ。 「へえ、イイ子ちゃんもよく口が回るようになってきたじゃないか」 「おかげさまで。椅子を勧《すす》めた覚えはまったくないわよ。暇そうで羨《うらや》ましいわね」 「無能なヤツの常套《‥し上でりと・ブ》句だな。どっかで手を抜いたツケが回ってダラダラ仕事してるだけだろ。そんなのに限って『仕事で忙《いそが》しい』なんて顔してんだよな。自分の仕事管理も配分も? クにできてないだけだろ。暇なんて自分次第《しだい》でいくらでもつくれるもんだ。いっとくがオレは他の誰より仕事してるぜ? 勿論お前よりな。オレより仕事してからそういう言葉を吐《は》けよ」秀麗はその言いぐさにむかっ腹が立ったが、清雅を睨みつけるだけに留めた。その言い分が全部正しいとは決して思わないが、清雅が誰より仕事をしているのほ事実だ。そこを越《一」》えないと、この件に関しては何一つ反論できない。−明日は汁麺《しるめん》に決まりだ。  清雅は秀麗の顔を見てにやっと笑った。甘いが馬鹿じゃないヤツを相手にするのは面白い。  それに、清雅は秀麗の本気で怒《おこ》った目を見るのが結構好きだった。くだらない馴《な》れ合いでへらへら笑っていた時より、よっぽどマシな顔をしている。                                           ヽノ  清雅は机案に載《が.》っていた重箱に気づくと、まるで自分のもののように開け、指先で春巻やら餃子《ぎようぎ》やらをつまんでまるで 「俺のモノ」のようにハタハ夕食べ始めた。蘇芳は必死で見ざる聞かざる言わざるを決め込んで、ただひたすら室の隅《すみ》で読書に励《lょず》むフリをすることにした。  案の定、気づいた秀麗は憤然《ふんぜん》と机案を立った。 「ちょっと清雅! 何勝手に食べてんのよっ。あんたのためにつくったんじゃないわよ〓‥」 「何言ってる。オ《ヽ》レ《ヽ》の《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》に《ヽ》つ《ヽ》く《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》ん《ヽ》だ《ヽ》ろ《ヽ》っ・」  秀鰐はすぐにその意味を察して眉《ま紬》をあげた。三つ呼吸を数え、椅子にドカツと座り直す。 「あ、そう。私のことは今朝のご飯の作り方まで逐一《ち′1いち》調べずみってわけ」 「当然だろ」 「ふっ、いくらでも調べたらいいわ。我が家に調べられて困ることなんか何もないわよ」  付け合わせの人参《にんじん》をつまもうとした清雅の手が止まった。うっすらと唇に笑みを刷《は》く。 「……へえ。そう思ってるのか」  意味深な言葉に、秀麗は訝し《いぶか》げに顔を上げた。蘇芳もちょっと反応した。確かに、あのタケノコ家人ほただものじゃない。秀麗が平凡《へいぼん》な一般人《いrJぼんじん》と信じていることが不思議なくらいだ。 「…・何それ。どういう意味よ」 「さてな。まあお前に関しては呆《あき》れるほどなんもなかったがな。裏庭が野菜畑になっててお前が夏大根引っこ抜いた拍子《打ようし》にひっくり返って頭打ったって聞いたときは思わず笑ったぜ」 「う、ううううるさいわね!」  清雅は親指についた煮汁《にじる》を舌でなめとった。まるで秀麗《えもの》を食べる前の舌なめずりに見える。 「だが確かにお前はやりにくい。いくら高額の給料もらっても道寺やら診療所《しんりこ皐うらレ上》やら茶州府やらに平気で全額くれてやるし、そこのタヌキ一家の賠償の肩代《ぼいしようかたが》わりをしたりして常に貧乏《げんぼう》」蘇芳はチラリと清雅を見たが、何も言わなかった。 「噂を拾えば近所の誰もが働き者で器最よしで頑張《がんば》り屋の優《やき》しい娘《むすめ》さんとかって日をlそろえていいやがる。何か気になることはと聞けば、これまた全員異口同音に『秀麗ちゃんの嫁《し》き遅《おく》れと紅師が詐欺《せんせいさぎ》に遭《あ》わないかだけが心配』」 「……………・後半は私も心配だけど」 「オレこそあっぱれっていってやりたいね。これを天然でやられるとつけこむのが難しい。そもそも昇《——r》でやるヤツがいるとは思わなかったぜ。どこまでもオレの神経を逆なでする女だ」 「それはどうも。今までの人生の中でいちばん嬉《.つll》しい言葉だわね」 「まあ、じっくりいくさ。……当面の相手はお前じゃないからな」後半の呟《つぶや》きはもちろん秀器の耳に入らない程度に抑《おさ》える。 「おしゃべりはここまでだ。�昼休みが終わったら皇毅様のところへ顔出ししろ」  清雅の声質が変わる。冷ややかで有無《うむ》を言わせぬ口調は、否《いな》を許きぬ絶対命令だ。  室を出て行く間際《まぎわ》、清雅は一度だけ秀麗を振《・ル》り返った。 「そうそう、オレを調べ回ってもいいが、他《ヽ》の《ヽ》ヤ《ヽ》ツ《ヽ》同《ヽ》様《ヽ》徒労に終わるぜ。おとなしく仕事をこなしてるほうが有意義だ。監察《かんさつ》関係に通じてるオレに、その手のへマは期待するなよ?」 「よく泳ぐものは溺《おぼ》れる、ともいうわよ」清雅は目を煙《きら》め廿せ、彼特有の廠岸《ごうがん》な笑みを唇に刻んだ。状況が《じよう上よう》状況でなかったら、まるで運命の女に恋《こい》を仕掛《しカ》けられたかのような凄艶《せいえん》な微笑《げしよう》だった。 「−溺れさせてみろよ」  その時が楽しみだといわんばかりに、清雅は裾《すそ》をひるがえし、悠々《ゆう紬う》と出て行った。 (おわー……なんだ今の男と女の修羅場《しゆらげ》〜みたいなやりとりは)  蘇芳が秀麗を見やると、ゆっくりと腕《うで》まくりしている。流れた髪《かみ》で表情は見えない。 「…・タンタン。いつものちょうだい」  まるで居酒屋の常連おやじがヤケ酒をあおるときのような注文だが、蘇芳はすぐ用意した。  くるくる巻いた布団《ふとん》を引っ張り出して立てかける。仮眠用《かみんよう》に丸めているだけのそれは、秀麗がやってきてからもっばら本来の用途《ようと》とは違《ちが》う使われ方をされるようになった。 「1一今日もごめんなさい布団さん」  秀麗は深々とまず謝り、おもむろに 「清雅の高飛車陰険《もlんけん》オレ様バカ野郎《やろう》」と書いた紙を組紐《くみひも》の隙間《すきま》に挟《はさ》む。ペキパキ指を鳴らす小技《こわぎ》もこの頃覚えた。次の瞬間、《しゆんかん》くわっと目を剥《む》きー。 「なんだってやることなすこといっちいちオレ・最高なのあいつは‖‥なに、なんなのあんの天下無敵のいぼりん坊《ぼう》っっぶりは! あの垂れ流しな自信と嫌《いや》みの源泉はどこ!?誰かココって言ってくれたら今すぐ地の果てまでも飛んでって即刻埋《そつこくう》め立ててくれるわ!!」  清雅布団をピソタし、肘鉄《ひじてつ》を叩《たた》き込み、蹴《け》りを入れ、あまつさえひっぼる。布団にしてみれば 「やめてー」としくしく泣きたくなるような不当な八つ当たりっぶりである。  T…・おお、今日もセーガ適応度絶賛上昇《1.じよ・つし上でつ》中だなt。まあカワイイもんだけど)  清雅に合わせてどんどん柄《が・り》が悪くなっている。とはいえ、会ったばかりの、なんだか色々ためこんでたっぽい顔よりよほど年相応に見える。多分、本当はこっちが素なのだろう。 「まったく鱗粉《りんふん》みたいに嫌みふりまいて、蛾《が》かってのよ! 清蛾《せいが》って改名すりやいいんだわ。もっと人と環境《かんさよう》に優しく生きられないのかしら。馬糞《ばふ人》だって肥料になんのよ。馬糞以下よあの男は! 返す返すも一生の不覚だわ。あんな男にうかうか騙《だま》されて『イイヒト匹一なーんて思ってたなんて!!私のバカ! こんなことなら飯店《は人てん》で遠慮《えんりよ》せずにたらふく食べとくんだったわ!!」 「……してたのかよ遠慮……」思わず蘇芳が小声でつっこんだ。どう思い返しても成人男性蘇芳と同じ量を平らげていた。  当時イイ子ぶって 「遠慮しないでいいんですよ秀麗さん」などという社交辞令をうっかり口にしたせいで、本当に追加を頼《たの》まれた挙句、帰り際《ぎわ》には折り詰《づ》めにして家族へのおみやげにもって帰られた清雅のほうが文句を言いたいんじゃないだろうか。  T…・マジでどっこいどっこいのいい勝負だよこの二人……) 「なにタンタン! ううん、わかってるわ、あとでちゃんとタンタンにも貸してあげるから」 「……いや、全然わかってないから」 「タソタソも怒っていいのよ。ふてぇ男よね、ほんと。まったくこしゃくなやつだわ」  御史の仕事で 「ある場所」へ行くようになってから、妙な語彙《みようごい》が増えたと蘇芳は思う。 「なんで? 別に俺はなんも言われてないけど」 「だからよ」  蘇芳はちょっと考え、ああ、と理解した。清雅が蘇芳に一瞥《いらべっ》もくれず、徹頭徹尾幽霊《てつとうてつげゆうれい》みたいに無視しっぱなしだったことを怒っているらしい。蘇芳は焼売をつまみながら頬杖をついた。 「別にたいしたことじゃないじゃん。セーガにとっちゃ、俺みたいなのなんて話す価値もないだけだろ。実際そーだし。だいたいあいつとどういう話しろっての俺に」 「人としてのまっとうな生き方を説教してやってちょうだい。年上だし。義理とか人情とか」 「俺に死ねっていうのかね。絶対無理。むしろ俺が人として二度と朝日拝めなくなるから」  蘇芳はキッバリ断った。義理の義の字を言う前に裏山に埋《う》められるに違《ちが》いない。  秀麗は頬《はお》を膨《ふく》らませたが、さすがに今回は 「やってもみないで」とは言わなかった。ヤケのヤソバチで無理難題をふっかけたことを反省してか、それとも単に清々したのか、秀虜はボコボコにした布団から 「清雅の高飛車陰険オレ様バカ野郎」の料紙を引っこ抜《ぬ》き、丸めて屑籠《くヂかご》に放りこんだ。そして布団を抱《だ》き寄せ、ひどい仕打ちを反省するようにボンボンと叩いた。 「今日も悪かったわ、布団さん。ポカポカお目様に干してあげるわね。−明日もよろしく」  ひでぇ、と蘇芳は思った。  秀庫は手早く机案周りを片付けると、立ち上がった。 「タンタン、少し早いけど、お昼にしましょう。葵長官が呼んでるっていうし、とっとと食べてとっとと行かないと、また陰険な蛾男にネチネチ嫌み言われるわ」 「へーい。ところでさー」 「ん?」 「年頃《し」しごろ》の女のコが大声で馬糞バフソ言うのはどうかと思うよ。せめてメシ時はやめようよ」 「………‥圭告打つごめんなさい」      1なお  対清雅には徹底抗戦の秀麗も、蘇芳のまっとうな言い分には素直に謝ったのだった。  秀麗と蘇芳は、たいてい昼食をこの間まで根城にしていた冗官室《じようカんしっ》でとることにしている。元冗官仲間もやってくるし、お悩《左や》み相談をLがてら情報収集もできるからだ。 「そいやさー。誰か王の後宮にくるってハナシ」 「このごろ�花″二人が王の傍《そぼ》に見えないって噂、《うわさ》ほんと〜」 「鴻《う》臆寺《ち》なんか葬儀《そうぎ》関係ばっかでオレ生きてるか死んでるかもわかんなくなるよ」  などなどにぎやかなのだが、今日は午《ひる》には早かったため、誰もいなかった。  蘇芳が二人分のお茶を滝《t▼》れ、自分の弁当を取り出す。竹の皮に、不格好な大きいおにぎりが三つ並んでいる。秀麗はそれが蘇芳のお父さんが握《にぎ》ってくれたものだと知っている。秀麗が賠償金を立て替《か》えたので、家に帰ることを許されたのだ。それから蘇芳の毎日のお弁当を父の榛  淵西《え・.八さい》がつくり、そのあとで働きに出かけているのだという。 「今日もおいしそうなお弁当だね〜」  秀麗が振り返れば、冗官の時に桃《もも》をくれた凌蜃樹が《りようあ人じぬ》にこにこと立っていた。 「……あ、畳樹様……またいらしたんですか……」 「だってこの男だらけの朝廷《ちようてい》で女のコと二人っきりになれるなんてここしかないからね」 「タンタンがいますけど」 「そうなんだ。そこだけが不満だね」  チラッと向けられた視線に、蘇芳はしかし頑張って踏《r》み止《とご》まった。  タケノコ家人お嬢様条項《じようきまじようこう》・『野郎と二人っきりにするな� 「……すみませんわーお邪魔虫《じやまむし》で。でも御史裏行《ぎよしりこう》なんで、一緒《いつしよ》にいるのが仕事なんでー」 「まあいいよ。でもね、お姫様《ひめさ史》と二人っきりだと思いこませてもらうからね。君は無視」 「…・わー。そんなに面と向かって堂々と無視宣言されるといっそ清々しいデスね」  ぷつぷつぼやきながらもいてくれるらしい蘇芳に、秀麗もホッとした。  次いで、曇樹は秘密主義の清雅のことを少しは知っているだろうかと、訊《毒−》いてみた。 「畳樹様は……清雅のこと、ご存じなんですか?」 「まあ君よりはね。皇毅の秘蔵っ子だし。ふふふ。清雅の情報がほしい?」 「う……まあ、いただけるものならぜひ」 「じゃ、何をくれる?」  卓樹は両腕《りよううで》を組み、いたずらっぼく瞳を輝《ひとみかがや》かせた。 「君は僕に、ひきかえに何をくれるのかな〜」  秀蔑ほ口ごもった。門下省の次官に何をあげられるというのか。 「……何も差し上げられるものはありません」 「そんなことないよ? そうだね、特別にご飯食べ終わるまでいてあげるから、頑張って私から何か引き出してごらん」  これもいつものことだった。  秀麗はなるべくさりげなく卓樹から清雅と皇毅の話を引き出そうとしたが、このおしゃべりで愛想《あいそ》が良くて社交的な大官は、秀麗が本当に知りたいことは絶対に話さなかった。しかも。 「…・実はね、ここだけの話、清雅は皇毅の隠《かく》し子なんだ。骨盤《こlリばん》が似てるだろう?」 「本当ですか!?」 「嘘《うそ》だよt。骨盤が似てるなんて一般人《いつほんじん》にわかるわけないじゃないか」  コロコロ引っかかる秀麗に、妾樹はくっくと笑い転げた。そう、蜃樹はものすごい嘘つきだった。しかも悪びれるどころか明るくそれを|暴露《ばくろ 》する。 「私はよく嘘をつくから、お気をつけって言ってるじゃないか」  秀麗はふるふると震《ふる》えた。しかし怒《おこ》らず、お茶のおかありまでついでやった。  もうご飯の時間は終わりだ。今日も収穫《ヽしゆうかく》なしか−。 「清雅の猿山《さるやま》の大将っぶりと考えは本当に変わりませんか」 「何しろ清雅だからねー。今だって私よりよっぽど偉《えら》そうで自信満々だろ」 「じゃあ、妾樹様からご覧になって、清雅と葵長官は同じですか」  蜃樹は−初めて軽薄《けいはく》そうな笑顔《えがお》をやめた。そして両の指を組み合わせ、秀麗を見た。 「それは君が判断することだね」 「どうしてそこでつむじを曲げるんですか」 「だってねぇ、君ときたら皇毅と清雅ぽっかりで私のことはひと言もきいてくれないし」 「だって蜃樹様は有名でしたもん」 「え。有名? 私の何が? ていうかどこで? 何の話?」  秀麗はバツとした。ちらりと姜樹を見て、仕掛《し・乃》けてみる。 「聞きたいですか? かわりに何くれます?」  蜃樹は笑った。ようやくこうきたか。 「やるね。わかった。いいよ、一個だけ、本当に本当のことを答えてあげる」 「−門下省の次官としてでもですか?」  斬《き》りこむような鋭《するご》い問いにも、妾樹はなぜかますます嬉《うれ》しそうである。 「いいよ。約束しょう。答えてあげる。お姫様の仰《おお》せのままに。でも、一個だけね」  秀麗は何を訊こうか、考えた。そしてこのひと月で、少しずつ聞こえてきた噂を思いだす。 『このごろ�花″二人が王の傍に見えないって噂、ほんと?』  秀麗が貴陽に帰ってきてから、一度も邵可邸に食材をもって遊びにきたこともなく。  それは勿論《もちろん》、秀麗や静蘭も仕事で邸《やしき》に不在がちだからでもあるだろうけれどト。  劉輝の傍に、いま誰がいるのだろうと、ずっと考えていた。 「……いま、今上陛下を……おそばで支える方ほ、多いですか、少ないですか」 「少ないね」  卓樹はハッキリと答えた。そして重箱に詰《つ》めてあった桃をつまんで食べる。 「今の王様は不遇《・1、ぐう》の子供時代のせいで馴染《なじ》みの貴族がいない。その上こないだ貴族を大量処分しちゃったし、霄太師ももう名誉職《めいよしよく》だ。固試組も立身出世が目的の一中流層が多くなって、貴族みたいに伝統や忠誠に価値を置かない。王に忠誠を誓《ちか》うって意識がないんだね。先王陛下は貴族に冷たかったから、今度の若い王様ならって期待感はあったけど、蓋《ふた》を開ければ門《う》下省《ち》の言葉は全然きかない。土の出した提案を審議《し人ぎ》して適当《テキトー》に文句いうのが門《う》下省《ち》の役目だけど、それさえさせてもらえない。大事な案件はいつも側近二人と勝手に決めて最後は押し切る」蘇芳は、なぜ秀麿が青ざめているの示わからなかった。蘇芳ほ貴族とはいえ、祖父が商人なので、王への忠誠など考えたこともない。どの王でも同じだろうというのが本音だ。 「先王陛下も確かに強引《ごういん》だった。それはもう今上陛下なんか及《およ》びもつかない。でもね、先王陛下はそれを認めさせるだけの揺《ゆ》るぎない実績があった。でも今上陛下は最初後宮にこもりきりの昏君《こんくん》かと思えば、いきなり勝手なことを言って命令をしはじめる。……と、傍目《はため》に思われてもしょうがないかな。いい王様になろうと頑張《がんば》ってるのはわかるし、打つ手も悪くない。見る者が見ればね。でも説明が足りないから、多くの官吏《かんり》はわからなくて不満が募《つの》る。説明が足りなくてもこの二王についていけば大丈夫《だいじようぶ》、と思えるだけの信頼《し人・りい》もまだないし」  秀席は畳樹の言葉をかみしめるように聞いた。それは確かにもう一つの真実だった。劉輝と同じ場所に属していたら、見えなかったもの。 「でも何がマズイって、その側近二人の藍楸瑛と李《}》緯倣がこのところずっと王の傍を離《はな》れてるってことだね。あれはまずすぎる。なんかあったんじゃないかって思われてもしょうがない」秀麗はぎくりとした。 「悠舜が全面的に王を守ってるから救われてるけど、若手の由世頭《しゆつせがしら》だった�花″二人が傍にいないってのは、それだけで印象が悪すぎる。まあ吏部はただでさえ忙《l−そが》しい部署だから李絳攸は仕方ないけど。でも悠舜の尚書令の辞令とちょうど入れ違《ちが》いだから、下手をすれば悠舜の任官が気に入らなくて衝突《しょうとつ》したんじゃないかって話まででてる。寵愛《ちようあい》とられたーみたいな?」 「そんなことは!」 「実際どうなのかは関係なくて。大事なのは、二人が傍目にそう見える行動を軽々しくとってるってこと。ほとんどの官吏は事実なんて知るよしもないからね。蘇芳君に聞いてみたら?」秀麗の強い視線に、蘇芳はびびった。が、ちゃんと答えた。 「……まあ、そーゆー噂は、聞いてる。下っ端《ば》って特に上のゴタゴタ大好きだからさー。嘘でも本当でも構わないとこ、あるし。面白《おもしろ》おかしく勝手に話広げて本当っぼくなってるってか」 「�花″は無二の忠臣の証だ《あかし》からね。若いから自分のことでいっぱいいっぱいなのかもしれないけれど、自分より王のことを先に考えることができないって時点で、�花″の資格の有無《うむ》を問われても仕方ない。彼らの一挙一動は王の評価に繋《つな》がるっていうのに認識《にんしき》が甘すぎるかな。  まあ悠舜が任官したし、単に以前との落差が大きすぎて目につくだけで、普通《ふつう》なんだけどね」  秀麗は、塩の件で会いに行った楸瑛を思いだした。  確かに、どこか、いつもと様子が違っていた。  それでも、楸瑛は桃を劉輝に渡《わた》し、劉輝は何も言わず、ただ笑った。 『楸瑛は優《やさ》しいからな』  秀麗は深く息を吸った。 「……わかりました。本当に真面目《よじめ》にお答えくだきって、ありがとうございました」 「そんなに私は不真面目に見えるんだね……。で、私の何が有名なのかな〜?」 「胡蝶妓《こらようねえ》さんがいくらさぐりをいれても名前も言わない謎《キぞ》な入ってことで有名でしたから。私もまさかこないだまで朝廷《ちようてい》で大官をなきってるかただとはとんと思いもしませんでしたし」蜃樹は呆気《あ 「!?》にとられた。 「……なんで知ってるの?」 「たまにふらっといらしてたのを思いだして。そんな頻繁《けんば人》じゃありませんでしたけど、あの若さで胡蝶妓さんを指名できる入ってものすごく少ないんで、覚えてたんです。私が十歳くらいのとき『大きくなったら私の相手をしてくれる? hって頭なでてもらって桃《もも》を頂きましたよ」蜃樹は秀贋を見つめ、みるみる目を丸くした。 「……え。もしかして、桓娩楼《こうがろう》の店先で算盤弾《そろばんはじ》いてた小さい女のコ〜」 「そうです。昼《ヽ》帰《ヽ》り《ヽ》する妾樹様を見送らせていただきました」  蘇芳は計算した。秀麗十歳ということは当時姜樹は三十前後。 (……『大きくなったら』って言わなかったら確実にヤバイひとじゃん……)  しかしやはり蘇芳はエライ人には逆らわず、心の中だけで呟《つぷや》いた。 「なんてことだ。運命を感じない?」 「桃をいただく運命しか感じません」  曇樹は秀麗を見つめ、今までとは違う謎めいた微笑《げしよう》を浮《う》かべた。 「さて、お昼も終わりだ。そろそろ行かないと。……また君に会いにきてもいい?」 「ええ、どうぞ」 「私はまた嘘をつくかもしれないよ」 「それに関してはもうあきらめてます。宣言してくださるぶんだけ公平ですし」  蜃樹はにっこり笑った。 「今日は君の勝ちだね。花街の噂話《うわきぼなし》と門下省次官の『本当』じゃ、どう見ても私のお代のほうが高くついた。嘘つきの私から『本当』を引き出すのは難しいのに、よくやったね」くすくすと鼻樹が笑う。そして桃を一切れ、ひょいと不意打ちで秀麗に食べさせた。 「頑張る女のコは大好きだよ。賢《かしこ》い女のコはもっとね。皇毅や清雅にいじめられても毎日健気《けなげ》に仕事をしている君を見るのが好きなんだ。あんまりにもいじらしくてつい助けたくなる」 「すごい嘘《一つそ》くさいです、蜃樹様」 「なんでばれたんだろう。本当ほ偶然《ぐうぜん》通りがかったとき、聞こえてきた怒涛の口喧嘩《どとうくちげんか》に笑いが止まらなくて。いやー、あれだけ清雅に言える女のコがいるなんてね。頑張って欲しいな〜」 「御史台に偶然通りがからないでください」 「怒らないで。もう一切れ桃食べさせてあげるから。お膝抱《ひぎだ》っこもしてあげる」 「もっと怒ります。大体これは私の桃です」 「残念だなt。でも清雅が君をいじめたくなる気もわかるね。−今日みたいに賢く頭を使って、私からたくさん情報を引き出して、嘘の中の『本当』を見つけてごらん。それができれば清雅にも負けないよ。我ながら利用価値はあると思うから、頑張って。色仕掛《いろじカ》けも大歓迎《だいかんげい》」曇樹はふわりと風に流れた髪《かみ》をかきあげ、立ち上がった。 「王様を守りたければ、君が強くおなり。気が向いたら助けてあげる。清雅は容赦《ようしや》ないよフ」  お昼の後、清雅に言われた通り葵長官の室に赴《おもむ》くと、そこには皇毅だけでなく清雅もいた。  秀麗は内心ちょっと驚《おどろ》いた。……いったい何の話だろう。  しかし御史台長官である皇毅が開口一番秀麗に言ったのは、仕事の件ではなかった。 「−1−お前はよくよくろくでなしに引っかかりやすい娘だ《むすめ》な」  視線もあげず、眉《まゆ》一つ動かさずに言われ、秀麗は言われた意味がわからなかった。 「……は?」 「蜃樹を情報源にしようとしているなら、やめておけ。お前の手に負える男ではない」  隣《となり》に立つ清雅は驚いたように眉を上げ、秀麗を横目に見た。  秀麗はものすごく唐突《とうとつ》な二つの会話をなんとか繋げようと努力した。 「……ろ、ろくでなしって……委樹様のこと、でしょうか」  初めて皇毅は秀麗を見た。無表情の中にも微《かす》かに呆《あき》れが見てとれるのは鍛錬《た人ーlん》のたまものだ。 「お前はあいつがろくでなしに見えないのかフ」 「……ええと……」 「ハッキリ答えろ。見えないなら問題外だ。人を見る目皆無《かいむ》と判断し即刻《そつこく》クビにする」 「いえあのまったく見えないわけでは! そんな感じは確かにちょっとー」  秀麗は思わず正直な感想を述べてしまった。ハッと口を押さえる。 「……つて……葵長官のご友人じゃないですか……」 「だからなんだ?友人だとすべての欠点が美点に見えるわけか? 軽挑浮薄《けいちようふはく》で大嘘つき、人を煙《けむ》に巻《ま》く、口八丁手八丁、へらへらしながら肝心《かんじん》なことはしゃべらない、いつもどこかをふらふらほっつき歩いて仕事をしてる姿をついぞ見ない。どこをどう切っても適当の二文字しか出てこない。性格はあいつの髪と同じでどこもかしこもふわふわくるくる軽くて捉《トー・−J》えどころがない上に曲がりまくっている。私の人生の中であの男ほどのろくでなしはいないがな」なんで友人をやってるんですか、と訊《き》きたくなるような酷評《こ′1ひよう》っぶりである。しかも皇毅が立て板に水のように評した言葉に、秀麗もあまり反論できなかった。まさにそんな感じだ。 「−そのくせ、あいつは私より上手《うわて》だ。そういう男だ。目の付けどころは悪くないが、今のお前じゃ到底太刀《とうていたち》打ちできん。いいか、あいつを手づるにしようなどと、トドに己《おのれ》のトド人生を反省させるくらい無駄《むだ》な話だ。いい加減、男を見る目を養ったらどうだ。次々背後霊《はいごれい》のようにろくでもない男に取り憑《つ》かれる人生だな。そのくせ王慶張《おうけいちよう》のようにまっとうな男はふる。なんだ、人生賭《か》けての乾坤一柳《けんこんいってき》大ばくちでもやってるのかお前は」秀贋は反論したかったが、どこをどう反論していいかわからなかった。  横で清雅が吹《ふ》きだした。皇毅が淡々《たんたん》としているだけに余計笑えるらしい。 「笑ってんじゃないわよ清雅! あんただって立派に背後霊の一人よ!!中でも最悪よ」 「はあフォレはお前の背後じゃなくて前で待ち構えてるんだぜ。失礼なこというなよ」  トン、と皇毅の指が軽く机案を打つ。秀麓と清雅はたちまち口を喋《つぐ》んだ。 「最初で最後の忠告だ。ヤツを見たら即逃《そくに》げろ。何かもらったら突《つ》っ返せ。二度は言わん。それでもいいというなら勝手にしろ。あいつに桃でももらったが最後、取り返しがつかんぞ」 「…………桃、ですか」秀麗の微妙《げみよう》な尻《しり》すぼみの語尾《ごげ》に、皇毅は眉根《まゆね》を寄せた。 「……もらったのかフ」 「……はい……」  皇毅は顎《あご》に手をやり、何かを考えるように沈黙《ちんもく》した。色素の薄《うす》い瞳が《ひとみ》いっそう感情を失う。 「……そうか。無駄な忠告をしたようだな。ならもういい。今の話は隅《すみ》から隅まで忘れろ」  その瞬間、《しゆんか人》秀麗はなんだかものすごい見捨てられた感がした。そのくらい投げやりだった。 「そんな待ってください! 曇樹様に桃もらったら何かあるんですか!?不幸の桃とか!?」 「別に。私のように人生が三倍愉快《仲かい》になるだけだ。よかったな」 「あからさまに嘘ですよねそれ!?長官が愉快に見えた例《ため》Lがありません」 「何を言う。私は常に愉快痛快不愉快な人生を送っている。あのろくでなしのおかげでな」  最後何か別のものが混じっていた気がしたが、さすがの秀麗も聞き返す勇気はなかった。 「桃をもらったなら博打《ぼくち》をする価値もある。たまに当たりも入れてくるはずだからな。あとはお前次第《しだい》だ。ただし忘れるな。蜃樹に逆に喰われたら即《ヽヽヽヽヽそく》クビだ。−仕事の話に移る」最初から最後までば本調子の声ながら、断罪するようなその冷厳さは、声を荒《あら》げられるよりよほど効く。薄い色の双陣《そうぼう》も、見つめられると自然と背筋が伸《の》びてしまう威圧《いあつ》があった。 「——一陣清雅、紅秀麗」  清雅と秀麗はそれぞれ背筋をただして返事をした。 「私から一つ仕事を命ずる」                                                                            l一  清雅は不快そうにムッと眉を《r》吊り上げた。 「……皇毅様、それは、オレにこいつと組めってことですか」 「そうだ」 「理由をお聞かせ願えますか。オレ一人に任せられないとご判断された理由を」 「お前が男だからだ」  清雅は呆気にとられた。・…‥は? 「監察《かんさつ》事案は今度後宮入りをする藍家の十三姫《じゆうきんけめ》暗殺をたくらむ者の背後関係を暴《あぼ》くこと」  秀麗はドキヅとした。そんな噂は《うわき》確かに聞いてはいた。しかし実際どこでドキッとしたのかは自分でもわからない。 「王の妃《きさき》候補を暗殺したいと思うただの一般庶民《いつばんしよみん》はあまりいないだろうからな。十中八九官吏が関《カカ》わってるはずだ。それで御史台にお鉢《りち》が回ってきたわけだ。常道は年頃《としごろ》の娘をもつ貴族や官吏だろうな。王が一人枠《ひとりわ・、》などと言い出さなかったら、藍家の姫を暗殺しょうとする馬鹿《げか》も少なかったはずだが、入る余地がなくては阿呆《あほう》なこともしよう」 「……ということは、もしかしてこいつを十三姫の替《か》え玉として後宮に?」 「そういうことだ」秀麗はまた心臓がはねた。後宮−。  皇毅はチラリと目だけで秀麗を見た。 「いざというときはお前が代わりに死んでおけ。十三姫の代わりはいないが、今のお前が死んでも別に痛くもかゆくもない。いっておくが妃候補が暗殺されてヒラ御史のお前が生き残った場合、お前の責任だ。降格左遷《させん》どころか大理寺裁判で処刑《しよけい》される覚悟《かくご》で臨《のぞ》め」  秀麗は頬《はお》を引きつらせた。徹頭徹尾《てつとうてつげ》正しいとしても、もう少し言い様というものがないのか。  しかし秀麗は負けなかった。もうかなり慣れてきたということもある。 「わ、わかりました! でも死にませんからね。死んでる暇《ひま》なんてないんです!」 「私に宣言してどうする。勝手にしろ。・——−清雅、新人一人には到底任せられん。何せ蜃樹の桃《も・も》をうっかりもらうようなバカモノだからな。失敗したら御史台の責任になる。紅秀腱はオマケと思ってお前も事に当たれ。ただし、組めとはいったが、別に一致《いつ▼ち》団結して協力しろとはいってない。最終的に案件を片付けられればいい。どっちか一人の手柄《てがら》にしても無論構わん」清雅の目がきらめいた。 「……紅秀麗が死んだ場合のオレの処分はどうなりますか?」 「こないだと同じ一ケ月の謹慎《きんしん》処分くらいだな。お前に休まれると仕事に差し障《さわ》りがでる」 「わかりました。善処します」  秀麗はあんぐりと口を開けた。あからさまな待遇《たいぐう》の違《ちが》いに言葉もない。 (わ、わかりました、つて…………清雅のマメ吉《J,ち》〜…l・う!)  暗に清雅に秀麗を利用して案件を処理しろっていってるようなものである。しかも『善処しますhなどと、清雅の中で九分九厘死ぬのが前提になっている。  皇毅が目だけで秀麗を見た。 「なんだ、紅秀麗。文句でもあるのか? 死なないなら別に構わんだろうが」 「′  …  Jありませんっっっ〓‥」 「ならいいな。まだ十三姫が貴陽入りするまでには数日ある。それまでは通常通り仕事をしてろ。ただし、十三姫の件があるからといって他の仕事の免除《めんじよ》は一切《いつさい》しない。二人ともに、通常業務は勿論《もちろん》、手がけている案件も同時並行して《ヽヽヽヽヽヽ》やれ《1ヽ》。それでなくとも御史の数が少ないからな。  仕事の優先順位は自分で決めろ。藍家の件は逐一《ちくいち》私に報告しろ。いいか、検挙しろとまではいってない。つかんだ時点で私まで報告を回せ。検挙するかしないかは私が判断する」  秀岸はぐっと牡《はら》に力を込めた。 「それは、罪が明らかになっても検挙しないこともある、ということですか」  皇毅はいっそう冷ややかに秀麗を見下ろした。 「�御史大夫はお前か〜私か? 余計な差し出口を叩《たた》く前に、まずまともな仕事をするんにな。私に意見したければ、それなりの身分になってからしろ」  皇毅はついと手を振《ふ》った。 「1以上。紅秀麗は帰って清雅は残れ」  �秀麗の憤憑《・小んょ人》やるかたない足音が遠ざかるのを待って、清雅は皇毅に向き直った。 「……皇毅様、どうしてわざわざあいつと組めなんて言ったんですかフォレが先に進めてた禾件《マ》ですよ」 「不満か」 「非常に不満ですね。久々の大きな案件なんですよ」 「だからだ。大きすぎる。ことは慎重《しんちよう》を要する」  皇毅はトン、と机案を打った。珍《めずら》しく微《かす》かな苛立《いらだ》ちが見える。 「どうせ遅《おそ》かれ早かれ紅秀麗はこの案件に関わらざるをえなくなる。無理に引き離《はな》しても時間稼《かせ》ぎにしかならんだろう。そういう案件だ。巻き込まれて死ぬ程度ならいいが、そうはいくまい。背後に紅家がついている上、悪運もやたら強い。が、あの娘《むすめ》の正義感に任せて好き勝手動かれると困るのでな。正式な仕事にしてお前という制御《せいぎよ》装置をつけることにした」 「不愉快ですね」 「あの娘が嫌《きら》いか」 「死ぬほど。オレがあの女と同じ境遇《きようぐう》だったら、もっと上手《うよ》くやれてますよ。オレにないものを山ほどもってるのに、使おうともしない。見ているだけでむかっ腹が立ってきますね」かつて秀麗が清雅に対して感じたのと同種の嫉妬《しっと》を、清雅も日にした。  清雅があの女を認める日は一生こないだろう。根本的に、今まで信じて積み重ねてきたものが互《たが》いにまるで逆なのだ。あの女を認めることは、今までの自分をすべて否定することになる。  それはあの女も同じはずだ。だから互いに理解はしても、死んでも負けは認めない。  自らに対する衿侍《さトでりじ》と信念の高さは、清雅も秀照も同等なのだ。 (それにあの女の本気の日はキライじゃないしな)  いつも誰彼構わず優《やさ》しくしてやる女だ。おそらくは清雅しか見ることのない顔だろう。その事実は結構清雅も気に入っていた。−キライで結構。好かれる方が虫酸《むしず》が走る。  皇毅は微かに片眉《かたま由》を上げた。 「……お前がそこまでこだわるのは本当に珍しいな。その意欲を李絳攸に向けてくれていれば、旺季殿も多少なりと安心しただろうに」 「それこそ冗談《じようだん》じゃありませんね。どうしてこのオレが、あんなどこの馬の骨ともしれぬ男をわざわざ相手にしなくちゃならないんです」清雅は馬鹿《ぼか》馬鹿しいとばかりに侮蔑《ぷベつ》の色を浮《う》かべて吐《は》き捨てた。 「紅秀麗と違って、しょせん紅黎深に拾われなければ国試を受けようとも思わなかった男ですよ。紅黎深の金魚のフソとしてくっついてきただけだ。王の側近なんて名ばかりで、養い親以上に出世する気もない。紅黎深の輔佐《ほき》になってから出世が打ち止めなのは、李経倣自身の意思です。紅黎深は別に何も手を回していませんからね。それが李経倣の決めた終着点だったってことです。いくら優秀《ゆうしゆう》でも、安閑《あんか人》と今の地位に満足してる男なんぎ相手にするだけ時間の無駄《むだ》です。オレの中ではまだ紅秀麗のほうがマシですよ。締麗事《きれいごと》ばかり抜《ぬ》かしてるが、出世したいってのは本物みたいですからね。将来オレの妨げ《斗−また》になるとしたら紅秀麗のほうです」朝廷随一《ちようていずいいち》の才人に対する罵苫雑言《ばりぞうごん》にも、皇毅はやれやれと溜息《ため.いき》をついただけだった。 「しょうのないヤツだ。が、例の別件はしっかりこなしてもらう」 「……わかってますよ。片手間でできますよ、あんなの」  清雅を下がらせたあと、皇毅は地方を巡《めぐ》る監察《かんきり》御史が送って寄こした案件に目を通した。  −中央ではまだ知られていないが、地方で何人かの高官が不審《ふしん》な死を遂《と》げている。  十三姫を襲《おそ》う兇手。《きようLゆ》兵部侍郎からの内密の情報。 (……暗殺集団�風の狼″《おおかみ》との類似《るいじ》、か)  秀麗はドカドカと足音高く室に戻《もご》った。 「そうよ。おとなしく死んでる暇なんてどこにもないのよ! 頑張《がんぼ》るわよっ」  ふと、秀麗はその頑張る内容が 「劉輝の新しい妃を守るため.の替え玉」ということに、ちょっと苦笑いした。劉輝が聞いたらなんて思うだろう。  ……複雑でないといったら嘘《らこて》になる。でも�。 (頑張ろう)  ふと、前方から何かがコロコロと転がってくるのが見えた。ふさふさの艶《つや》やかで美しい毛並みをしていて、一つは墨色《すみいろ》、もう一つは白に近い青銀色をしている。毛足が長いので、つぶらな目やとんがった小さな耳が埋《・プ》もれてよく見えない。大きさはタンポポの丸い綿毛ほどしかなく、子供の掌《てのひら》にも乗ってしまいそうだ。 「あら、タロ、シロ。またきたの」  秀麗が手を差し伸《り》べると、嬉《うれ》しそうに転がり寄ってくる。  最初宋太博と零大師と一緒《し.つしlょ》にくっついてきて、 「クロとシロだ。時々邪魔《どや圭》したら構ってやってくれ」などと言われたときは目が点になったが、なんとなく茶州の州牧邸で転がっていた黒い物体を思いだした。とはいえ、さすがの秀麗もこの不思議生物はいったいなんなのだろうと不審に思った。しかし宋太博が 「何かの小動物だ」と堂々と答えたので、秀麗はそれ以上訊《ヽ−》けなかった。−宥大師が目を逸《一一、》らしつづけていたことが気がかりだったとはいえ。  そうしてたまに秀麗の周りを転がるようになったタロとシロだったが、なんと非常に賢《かしこ》く、礼儀正《llいぎlただ》しい小動物だった。それに傍《そぼ》にいるとホヅとして、元気をわけてもらえる気もした。  毛玉二匹《ひさ》をなでてやる。クロとシロも秀麗の掌に頭をすり寄せると、ちょっと下がって丁寧《ていねい》に頭を下げ、またいずこかへコロコ? と旅立っていった。餌代《えきだい》もかからないところがいい。  秀麗はその後、自室の扉前《とげらよえ》の箱にたまっていた害翰《しよかん》をとりだした。  監察《かんさつ》という職業上、届けられる直訴《じさそ》や投書《タレコミ》はほとんどが匿名《とくめい》である。その中からまず清雅をはじめ、高位の御史に 「おいしい仕事」が振り分けられ、残りが新人の秀麗に回ってくる。とはいえ、大概《たいがい》があからさまな偽情報《ザセネダ》だったりするので、いまのところ秀麗の主な業務は早急に法律を完全に頭に叩き込むことと、過去の判例研究、上がってくる再審請求や訴状《きいしんせいさゆうそじよう》の仕分け、そして他の御史がやりたがらない仕事や雑用、上級御史から頼《たの》まれる資料や判例集めなどだ。  さすがにまだ自分で仕事をつかんでくるという高度な技《わぎ》は無理だ。  焦《あせ》って行動しても清雅に足をすくわれるだけだと重々身に染《し》みたので、今の秀麗は焦らない。  上の段階を目指すのは、仕事を覚え、やるべきことをやってからだ。  秀麓は扉を開けながら、書翰に目を通していく。律令集《り? れいし紬う》を読んでいた蘇芳が顔を上げた。 「おかえりー」 「ただいま。ねえタンタソ、またきてるわ」 「『牢屋《ろうや》で死んだはずの幽霊《ゆうれい》がこないだ通りを歩いてるのを見ました!』ってやつ?」 「そう」 「あのね……ガセネタに決まってるじゃん」 「でもここひと月に集中してるのよ。定期的に届くならガセネタかもしれないけど」  蘇芳は眉を上げた。まさかー。 「……調べるつもり?」 「徒労に終わるなら別にそれでいいじゃない。牢《ヽ》城《ヽ》関《ヽ》係《ヽ》は《ヽ》私《ヽ》た《ヽ》ち《ヽ》の《ヽ》仕《ヽ》事《ヽ》だ《ヽ》し《ヽ》」       ・器・翁・ 「リオウ!」 「なんだよ。いま仕事してるんだが」 「いや……なんだかいっぺんにゴタゴタきて……ちょっとそなたの頭を借りるぞ」  新仙洞省《せんとうしよう》長官として仙洞省関連の書翰に目を通していたリオウは、ガクッと肩《かた》を落とした。 (……なんか李経枚がいないぶん、お鉢《はら》がオレに回ってきてないか?) 「くっ。もう少し早く十三姫《ひめ》のことがわかっていたら�」 「たいして違《ちが》いはないと思うが。まったく示唆《しき》されてなかったはずはないだろ」  劉輝はぐっと詰《つ》まった。……確かに、去年の秋、鰍喋から 「異母妹《いもうと》が送られてくるかもしれない」とは言われた。けれど楸瑛自身も他人事のような軽い口調だったし、劉輝自身もその現英的な可能性から目を背《そむ》けていた。�いや、心のどこかで期待していた。  そうなる前に、楸瑛が止めてくれるのではないかと。  劉輝は目を閉じて、考えをまとめるためにリオウに話しかけた。 「リオウ……藍家の姫を、拒絶《きよぜつ》したらどうなるフ」 「臣下の心は離れる。今まで沈黙《ちんもく》を貫《? りぬ》き通してきた藍家が、ようやく動いたんだ。滅多《めつた》に譲歩《じようは》なんかしない藍家のせっかくの申し出をあんたが蹴《ナ》ったという形になるからな」 「……しかも余は一夫一婦制を主張してしまったのだが」 「たった一人の嫁《よめ》に藍家の娘を迎《むすめむか》えるなんぎ、これ以上ないニクい演出だな。ずっとあなただけ待って結婚《けつ二ん》しませんでしたってやつ。理想の結婚だ」 「さらに後宮に入れたからといって、藍姓官吏が戻ってくる保証などどこにもない」 「その通りだな。藍家は姫を送ったってだけだ。拒絶すればあんたの評価が大暴落するだけで、受け入れても別に藍家が何かする必要はない。官吏たちは勝手に妙《みよう》な期待をしているが、あんたが縁談《えんだ人》を断ればその期待が自動的に失望に変わるって寸法だ。結局どっちにしろ藍家に損はない。藍家らしいあざといやり方だな」 「′さうつ」リオウは目を適し終わった書翰を机案に載《の》せていく。  頭を抱《わ・カ》えている劉輝を見て、溜息をついた。 「……オレにはわからないが、愛ってのはそんなに大事か?」 「それは大事だ。ものすごく大事だ。世界でいちばん大事だ」 「オレはその愛とやらのせいで、ずっと不幸の輪をぐるぐる回ってる家族を知ってる。他人も自分も不幸にして、愛してる人間以外誰も見ない。自分の子供だってどうでもいい。子供が自分を愛してることさえどうでもよくて、平気で道具にして利用して切り捨てる。それも全部愛してるからだ。愛してるなら何しても許されるのか〜……オレには世界でいちばん大事なのは愛とは思えない。そのせいで治めるべき民《たみ》を不幸にして、紅秀席が喜ぶとも思えない」  虎林郡《こりんぐん》に、本当に一人の武官もつれずにたった一人で乗り込んできた秀庫を思いだす。 「……それに紅秀麗は人生全部あんたに捧《きさ》げてるだろ。他には何も見てない。すべての無茶は全部あんたのためだ。あんたのその他大勢の妾妃《しよ・つひ》の一人になるより、替《か》えのきかないたった一人の戦友でいたいって思ってるだけだろ。あんたの仕事はかありがいない。たとえ七家があんたに見切りをつけ、周りに誰一人いなくなっても、一生転職なんかできない。敵だって多い。閏《ねや》で二胡《にこ》を弾《ひ》いて慰《なぐさ》めるより、誰を敵に回しても、最後の一人になってもあんたの味方でいることを選んだんだろ。それだけじゃ満足できないのか? あの女に何かしてもらうことに慣れすぎてるんじゃないのか。誰だって限界がある。求めすぎればあの女だって潰《つぷ》れるぜ」今度こそ、劉輝は声を失った。……何も、本当に何も答えられなかった。 「……ま、貴族一派と繚家《ら′一ら》にとっちゃ、藍家を蹴ってくれると楽だけどな。−仙洞省関連は全部見終わった。あとは判押しておいてくれ」なんだか妙な話をしちまった、とリオウは自分で自分に呆《あき》れ返った。 (愛だのなんだの……バカかオレは……)  リオウが室《へや》を出ると、悠舜が立っていた。困ったように微笑《ほほえ》んではいたが、目は真剣《しんけん》だった。 「言い過ぎですよ、リオウくん」 「間違《まちが》ってるか?」 「あなたの言葉をお借りしましょう。間違っていないなら何を言っても許されますか〜」  リオウは沈黙し、髪《かみ》をくしゃっとかきまぜた。 「……そうか。そうだな。オレの父より五十歳くらい若いのに、あんたのが年上みたいだな」 「……リオウくん、それ、女の人にはいっちゃいけませんよ」  悠舜は思いだしたように懐《ふところ》から小さな巾着《ヽ、んちやく》をとりだした。 「そうそう、妻から、あなたに贈《おく》り物です。妻特製の知恵《らえ》の輪です。お仕事は羽羽殿と半分にして、子供はよく遊んでよく寝《ね》ること、と妻から言づてです。子供の本分ですからね」 「……明日にもポックリ逝《...V》きそうな一寸じいさんに、あんな仕事押しっけられるかよ」悠舜は 「一寸じいさん」に吹《ふ》きだしかけた。最近、リオウが羽令声《才lいいん》を背負っているのが朝廷《ちようてい》の風物詩になっている。小動物のように元気いっぱいにちょこちょこ走り回るうーさまだが、リオウから見ると風前の灯火《ともしぴ》に見えるらしい。以来、よくリオウが羽令努を背負って歩いてる姿があちこちで見られるようになり、朝廷ほのぼの度は五割増になった。 「俺の父親は二十代に見えても八十過ぎだ。カタツムリみたいに動かないしナマケモノみたいにポクポクよく寝てる。あれがじいさんのあるべき姿だろ。羽羽は歳の割に働き過ぎだ」  ……二十代の外見でそれはどうなのか、と悠舜ほ思った。ただの怠《なま》け者ではないのか。 「今度は私の室にも遊びにいらしてください。おいしいお茶菓《・r.ヾ・(り》子《し》を用意しておきますから」  リオウは呆気《あつけ》にとられた。妙な王には妙な宰相が《さいしよう》つくものだ。  ふと、なんとなく腹が立ってきた。どうして誰も彼もこう茶菓子だのなんだの、自分を子供扱《あつか》いするのか。−自分がなんのために朝廷《ここ》に来たのか、気づいていながら。 「あと羽羽殿をた守には歩かせてあげてくださいね」  リオウは、手を掛って杖《つえ》をついてゆっくり王の許へ向かう悠舜の後ろ姿を見送る。 (……そういえば確かこいつも、出身から入朝するまで謎《なぞ》が多いんだよな)  リオウも踵《−.1げで.》を返そうとし−手の中の小さな巾着に目を落とした。そして振り返る。 「−おいあんた」 「はい?」 「……あんまりはきっとしてると、本当に殺されるぞ。王と違ってあんたの替えはきくんだ」 「おや、死相でも出ておりますか?」  リオウは−不覚にも思わず息を呑《の》んでしまった。  悠舜はちょっと眉《よゆ》を上げた。けれどただそれだけだった。唇《′〜ちぴろ》に人差し指を当て、微笑む。 「人はいつか死ぬものです。それが遅《おそ》くても早くても、本当はたいした違いはないんですよ」   一l■■書▼料の跨り   ーその報は、朝廷上層部にまたたくまに密《ひそ》やかに囁《さきや》かれることになった。 『……聞いたか? 藍家の姫の話』 『めでたいことだ。藍家が王を認めるということではないか』  r『いや、あの三つ子のことだ。旺季様も慎重論《し人らようろん》を唱えたらしい。何か裏が−』  首あ紅藍両家のやることだからな……。だが紅出の比率を下げるにもちょうどいい軋群だ』 『これで藍姓官吏《か人り》も戻《もご》ってくるきっかけにもなるかもしれんーh (あの常春《とこはる》頭はどうするつもりなんだ)  絳攸は吏部侍郎室《じろうしつ》で仕事をしながら、イライラと手を止めた。 (……本当に妹を王の嫁にやるつもりなのかあいつ……)  邸《やしき》に押しかけるなり文を出すなりすることも考えたが、……かといって何を話せばいいというのだ。その間題に絳攸が口出しできる権利などない。第一今は−。 「……まーた妙な顔をしてますねぇ」  吏部の精鋭《せいえい》・覆面《ふくめん》官吏としてついこないだ秀麗の査定を担当していた楊修が《ようしゆう》、もってきた仕事を絳攸の机案《つくえ》に積み上げた。 「気になるなら、王のとこでもどこでも出かけりゃいいじゃないですか。別に喧嘩《けんか》をしたわけでもなんでもないんでしょう。朝廷でなんて言われてるかわかってます?」 「…・わかってる。が、しょうがないだろうコレじゃ」絳攸はぎろりと机案周りを埋《う》め尽《つ》くす山積みの仕事を眺《なが》め回した。  この光栄はもっぱら吏部尚書宴の専売特許だったが、近頃《らかごろ》ではまさに文字通り右から左へ移動して、侍郎室へと移ってきている。昔から黎深の仕事しない病は酷《ひご》かったが、ここ数ヶ月特に酷い。先だっての貴族の大量処分の仕事はしたし、悠舜の仕事も手伝っていたが−あれきりだ。どうしたのかと思うほど、本当になんにもしない。経倣ほ筆を硯《すずり》に打ち付けた。   ー朝廷での噂《うわさ》は知っている。気がかりも山ほどある。が、正真正銘《しょうしんしよ・ワめい》締他は動けないのだ。  下手に動いて迷ってる間に吏部はつぶれる。今の経仮は吏部尚書代行をしている状況《じよlつき1よう》なのだ。 「こんなんじゃ、どこにも行きようがあるか!!」 「まーそーですねぇ。誰もこんな状況になってるなんて、知りようもないですからね。噂だけが勝手に流れて迷惑千万《めllわくせんぼん》ですね。悠舜殿《どの》が尚書令になってから・ですかね、段々ひどくなってきたのは。そんなに悠舜殿が王にばかりかまけるのが面白くないのか。……それとも」楊修はちらっと絳攸を見た。 「あなたを王のところへ行かせたくないのか。……どっちもかもしれませんが」  締牧はぐっと奥歯をかみしめた。  そうではない、とは絳攸には言い切れなかった。  楸瑛が不在の状況で、絳攸もいなくなれば、どんな憶測《お! 、そ・ヽ》が流れるかわからないはずはない。  けれどそれを狙《ねら》っているかのように、パタリと仕事をしなくなった。  ……考えてみれば、いつもそうだった。藍龍蓮が《りlや・り寸l人》国試を受けに来たときも、今年の年末年始もそうだ。王が特に全官吏から注目を受ける大事なとき、いつも鰍喋は藍家に、締牧は黎深に縛《しほ》られてきた。辛から同時に引きはがされてきた。−まさに今このときも。  そしていつも楸瑛も締牧も逆らわないできてしまった。何 「つ疑問ももたずに。土と離《H左》れて絳攸は多くのことに気づいた。王に対する悠舜の接し方や紺佐《;lさ》の仕方を見てわかったこともある。間違っていたことも、直すべきところも、見習うべきことも、山ほど気づいた。それは恥《_ 》ずかしく情けないことだったが、これから修正できるはずのものだと思った。   −けれど、今のこの状況では、それさえできやしない。  絳攸はこのときようやく、王や自分に影響を及ぼす 「紅家」という名の力を意識した。  碧拍明《へきほくめい》と同じく、藍の名に高い誇りを抱いてきた楸瑛なら、なおさらのはずだった。       ・蕎・巻・  皇毅に呼び出されてから数日、秀産は十三姫がくる前になるべく仕事を片付けておこうと、  精力的に働いた。特に城外に出る仕事を集中的にこなした。  そうして今日も今日とて、秀鹿と蘇芳は御史の仕事のために軒《・lヽ†�1石》で城を出た。  護衛兼敏者《けんぎよしや》として一緒《いつしよ》についてきてくれるのは、以前虎林郡の病の折、秀麗が茶州まで引っ張り出した楸瑛麿下《さか》の一人、皐韓升《こうカ人Lよう》だった。薄《うナ》いそばかすで少年っぼく見えるが、れっきとした左羽林軍《きうりんぐ人》の精鋭武官である。たまに違《ちが》う武官がくるが、彼と顔を合わせるのが一番多い。  蘇芳は馬車に揺《ゆ》られてぼーっと街を眺めていた。 「タソタン、今日も『牢屋《ろうや》で死んだ幽霊《抽うれい》』のこと、ちゃんと聞き取っておいてね」 「へーい。でも結構驚《おどろ》いたな。聞いてみると意外と目撃《も・ヽげゝJ》情報あるもんな。『牢で死んだはずのナニナニが母親の家に帰ってるのを見た!』とか。調べてみるとちゃんと刑死《〓いし》してるけど」 「そうなのよね。親分衆に訊《ヽ、》いてもー」そのとき、大路で女性の悲鳴が聞こえた。  秀麗がぎょっと顔を出すと、倒《たお》れているおばさんと、その手から手提《てさ》げをひったくって駆《カ》け出す男が見えた。−ひったくりはこっちに向かってくる。  秀麗は一も二もなくゆるやかに走る馬車から飛び降りた。 「待ちなさー」  しかし、秀麗の目の前でひったくりがいきなりぶっ倒れた。間を置かず誰かがふわりと飛びかかり、倒れたひったくりの腕《うで》をねじりあげる。ひったくりが悲鳴を上げた。 「�折られたくなければ盗《レl一》・つたものをとっとと出しなさい」  旅装姿で深く覆《おお》いをかぶっていたために顔は判然としなかったが、小柄《こがら》な体格とその声で、女性としれる。しかも若い。秀麗は目を丸くした。  ひったくりから手提げを奪《うぼ》い返すと、少女は首筋に手刀を叩《たた》き込んで呆気《あつけ》なく気絶させた。 「ふっ……あたしの前でひったくりなんて運が悪かったわね。さーてお金お金〜。そろそろ路《ろ》銀《∫ん》が尽きてきたころだったのよね〜」ひったくりを仰向《あおむ》きに転がし、堂々と追い紺《◆す》ぎし始めた。秀麗ほうしろから肩《かた》を叩いた。 「あ、あのちょっとあなた……」 「えっ?あ、あら。その格好は官吏さん? くるの早�じゃなかった。ひったくりの追《お》い剥ぎなんてしてません。つい癖《J、せ》で−ゴホン違った。ええ勿論警吏《もちろ人‖いり》に引き渡《わた》�−」少女は秀麗の顔まで視線をあげると、ふっと沈黙《ちんもJ、》した。覆いを目深《まバか》にかぶっている上に、砂が入らないように口許《くちもと》にも風よけの布をしているため、近づいても彼女が秀麗と同じ年頃l《ト1しごろ》の少女ということしかわからなかった。 「……もしかして噂の紅秀摩さんかしら?」 「え? はい。どんな噂か存じませんが、そうです」  すると、少女はなぜか秀麗の手を両手でぎゅうっと握《にぎ》りしめた。ボンボンとなんだか激励《げさーlい》のような慰《なぐさ》められているような感じで背中を叩かれる。秀厳は訳がわからなかった。 「あ、あの?」 「迷わずひったくりの前に出るなんて、勇気があるわね。なかなかできるこっちやないわ。思った通りの女のコね。じゃ、ま《ヽ》た《ヽ》あ《ヽ》と《ヽ》で《ヽ》お《ヽ》会《ヽ》い《ヽ》し《ヽ》ま《ヽ》し《ヽ》ょ《ヽ》う《ヽ》」  しかし秀麗は少女を帰さなかった。少女の手にしているひったくりの財布《さいふ》をつかんだ 「しばらく無言の引っ張り合いになる。秀麗はにっこり笑《j九》みを浮《・ソ》かべた。 「よくわかりませんが、これもお返し下さい。ひったくりの財布でも追い剥ぎはダメです」 「……はーい。ごめんなさい」  少女は渋々《Lぷしぷ》あきらめ、ぺこりと頭を下げて謝った。  その少女のそばに、バカバカと香気《由んさ》に乗り手不在の漆黒《しつこノ〜》の馬が近づき、止まる。  秀麗のそばでひったくりをひっくくっていた鼻輪升は、馬を見て目を畦《みは》った。  �惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほど素暗《す∫》らしい馬だった。軍馬でもここまで見事な馬は滅多《めつた》に見たことがない。黒白両大将軍の馬だと言われても驚かないほどの名馬だ。  旅装の少女は、当然のようにその馬の手綱《たづな》をとった。 「ひったくられた女の人に、今度から手提げじゃなくて肩から引っかける袋《ふくろ》にしたはうがいいって、忠害しといてね。それじゃー」ひらりと手を振ると、少女は手綱を引いて、馬と一緒に人温《ひとご》みに消えていったのだった。  秀麗は首を傾《かし》げつつも、手提げを女性に返し、ひったくりを警吏に引き渡してから、再び馬車に戻った。留守番していた蘇芳が首を引っ込める。 「あれ、女のコア」 「そう。すごかったわね」  蘇芳はちょっと黙《だ蜜》り、これから行く場所を思ってぼそりと聞こえないように呟《 「ぷや》いた。 「……あんたはどじゃないと思うけど」       ・蕎・器・  楸瑛は藍邸で、遠出の身繕《みづ′1ろ》いをしていた。いつも身支度《みじたく》の手伝いをする侍女《じじよ》がいないのほ、辺り一面に書翰《しょ小ん》が乱雑にばらまかれて足の踏《ふ》み場もないからでもあったし、何より楸瑛自身がしばらく入ってくるなと厳命したからだ。  もうすぐ支度が終わるという頃《二ろ》、扉《とげ・lノ》の−向こう・から家令が声をかけてきた。 「若君」 「なんだ。出かけるから手短にしろ」 「此《し》静蘭殿がお見えになっております」  楸瑛はピタリと髪《かみ》を結《博》う手を止めた。次いで皮肉げに笑う。 「……別室に通せ。ただし茶は出さなくていい。私も彼もすぐ出る」  封一外出着のまま静蘭の待つ室《へや》へ行けば、静蘭も外衣を解いていなかった。  互いに挨拶《あいさつ》はしなかった。作り笑いもなしだ。そんな必要はないからだ。  静蘭は楸瑛の姿を感情のない双脾《そうぼう》で一瞥《いちべつ》した。 「お出かけですか、藍将軍?」 「−妹を迎《むか》えに出る。で、用件は?」 「…・さすがに�花菖蒲《はなしようぷ》″の剣《け∵ん》はもっていないようですね。安心しました」  楸瑛の腰《こし》に傭《は》いてある剣は、鍔《つぼ》に�花菖蒲″の−紋《もん》が彫《ほ》られたものではなかった。 「ようやく自覚したようですね」  −何度も、静蘭は楸瑛につきつけてきた。  楸瑛ほ情報を選《よ》りわける。  藍家経由で手に入れた情報があっても、藍家に関係すると判断したならば秘匿《!?し」こ》する。  朝賀の時期、繹家《!?よう!?》当主が秀鹿と接触《せつしょノ、》したときもそうだった。 『繚家が政事の表舞台《おもてぷたい》から姿を消し、沈黙を守ってから数十年《11ヽ》……』  あのとき、そう言った楸瑛を静蘭は境《わら》やた。それが嘘《うそ》だと知っていたからだ。  十五年前《ヽ1ヽ1》、活苑《せいえん》公子流罪《るぎい》の裏に標家が関《九∵乃》わっていたことは、藍家なら知っていたほずだ。けれど楸瑛は知らないフリをした。あのとき、彼は藍家としての立場をとった。 『藍龍蓮』は国試を受けながら、朝廷《ち▼ようてい》に入らなかった。兄たちが過去朝廷から引き上げさせた藍姓官吏もいまだに大半が戻《も‥こ》っていない。藍家はまだ完全に王を認め七はいない。  そして楸瑛も、無意識であれ慎重《しんもよう》に藍家直系と羽林軍将軍の立場を使い分けてきた。  藍家と王と。時と状況に応じて、楸瑛はどちらかを選んできた。  一年経《た》ち、二年経った。繚家の姿が見え隠《かく》れしなければ、待ってもよかったかもしれない。  けれど、もう待てない。もとより国情は刻々と変化し続ける。いつまでも仲良しこよしの主  従ごっこは通用しない。しかもここまでの状況にならわは自覚さえしようとしない。  藍家は手を打ってきた。肝心《かんじん》なのは、劉輝の後宮に藍家の姫が入るかどうかではない。  この一件で問われるのは、藍楸瑛が劉輝より藍家をとるかどうかだ。 「−ど《ヽ》ち《ヽ》ら《ヽ》を《ヽ》選《ヽ》び《ヽ》ま《ヽ》す《ヽ》か《ヽ》?藍将軍」  顔を上げた楸瑛と静蘭の間で、氷の火花が飛び交《カ》う。 「藍家は事《†」し」》あれど、ただ知らぬふりを決めこむだけです。第二公子の流罪の時も、王位争いの時も、紅藍両家が何もしなかったように」次の士と目されてきた第二公子を流罪に処したせいで、藍家は先王に見切りをつけた。当時出仕していた藍家の三つ子は、当主襲名《し時うめしl》の名目で藍姓官吏を引き連れて藍州に帰ってしまったのだ。当時はまだ宵太師や茶太保が実務に就いていて事態を早期に収拾できたことと、入れ替《か》わるように紅黎深たちが入朝してきたため、何とか落着した。が、この一件はのちのちまで尾《お》を引き、藍本家筋がいないことで増長した貴族たちによって、王位争いの一端《いったん》ともなった。  いざというときに助けるのではなく、まず様子見を決めl込む。それが今の紅藍両家なのだ。  それが悪いとは言わない。先王の時代のよう・に同全土が荒廃《こう‖∵い》して、どこにも救いがないよりょほどいい。二家の姿勢もその教訓だろう。−けれど、�花″を受け取ったなら話は別だ。 「忠義面をして、いざというとき主上のために働けません、では困りますからね。私ならそんな臣下は斬《ゝt−》り捨てますが。無自覚なぶん、味方のフリをされるよりよほどタチが悪い」  劉輝に好意をもってるかどうかなど関係ない。そんなものはなんの役にも立ちはしない。  静蘭は脳裏《のうり》に劉輝を思い浮かべた。誰よりも早く、真実に気づいていた王。 「……主上はあなたが藍家をとってもいいと仰《おつしや》る。私にはとても言えない言葉です」 『余は二番目でいい』  そんなことを言える王が、どれだけいる。そこまでいわれても決断しないのなら。 「けれど、私は主上ほど甘くはありません」  鍔こそ弾《‘lじ》きはしなかったが、鞘《きや》ごと剣を突《つ》きつける。氷のような目で楸瑛を見下ろす。  劉輝ができないなら、自分がやる。−必要なのは味方な切だ。本物の。  いつも、どんなときも、どこにいても劉輝のために最善を尽《′−》くし、決して裏切らない臣下。  そうでなければ、弱点にしかならない。藍家が楔《くさぴ》を打ち込んできたように、これからどんどんつけこまれる。今だって劉輝の陣地《じ人ら》は楸瑛と絳攸の不在によって崩《・.、ず》されているのだ。 「あなたが藍家を選ぶなら、別にそれで構いません。早々に藍州へお帰り下さい。�花菖蒲″り名誉《めいよ》も仮初《かり・て》めの忠誠もすべて返上して」  カタソ、と室の扉が開いた。 「…・そう見様をいじめないでやってくれる〜あなたが元公子様でも、今は一般庶民《いつぱんしよみん》でしょ。もう少し敬意を払《はら》ってやってよ。上からモノ言い過ぎじゃない?それに楸瑛見様が甘ちゃんでうっかり屋で、目を背《そむ》けちやいけないことでもギリギリまで逃《に》げて逃げて逃げて逃げまくって、袋小路《ふ′1ろこうじ》に人らなきゃ覚悟《かくご》決めない性格は子供の頃からのものなんだから。そう簡単に変えりれないのよ。だいたいあなただって好きなコに十年以上告白もしないで適当にいい場所確保  してるのほ同じじゃないの。偉《■へ・り》そうに説教できる筋合いなわけ?」  入ってきた旅装の女性は、はらりと風よけの|頭巾《ず きん》を後ろに押しやった。  その姿に、楸瑛と静蘭はぎょっと息を呑《の》んだ。  入ってきた旅装の少女に、楸瑛は呆気《あつ!?》にとられた。 「十三姫……か?」 「そう。貴陽に入ってから遺行く人に結構よく間違《まちが》われたから、顔隠してきたんだけど」  少女はさっき会った秀麗を思いだした。……確かに間違われても仕方ないかもしれない。  楸瑛も久しく会っていなかった異母妹を、上から下までとっくり見た。……さすがに驚《おごろ》いた。 「……背格好はそっくりだよ。顔かたちはそんなに似てないが、雰囲気《ふんこlき》がすごく似てる。胸の人きさは違《ちが》うけど。大きくなったね、十三姫」 「……そこなの、見様。といいたいけど結構高い確率で胸で別人て判断されたのよね……」  容姿でいうなら、妹のはうが数段美人だ。……汗《あせ》と砂攻で汚《すなぼこりよご》れた顔を締麿《きれい》にしたら……だが。  楸瑛が口を開く前に、十三姫がしっしっと静蘭を犬でも追《お》っ払《ばら》うように手を振る。 「見様に言いたいこと言ったみたいだし、用件がそれだけならもう出てってちょうだい。悪いワlど、こっちはこっちで積もる話がもりだくさんなのよ。あなたに構ってる暇《けま》ないの」 「……確かに言いたいことは言わせていただきました。では、失礼」  �静蘭が出て行った後、撒喋は呆《あさ》れて妹を見下ろした。 「……よく静蘭にあれだけ言ったね」 「私、基本的に顔のイイ男って好きじゃないの。性格悪いのが多いから。あの人そのものズバリの性格だわね。大体ね、相手が誰だろうが、徹頭徹尾《てつとうてつげ》言ってることが当たってて私も内心そう思ってる正直な感想でも、あれだけ兄を言いたい放題言われてイイ顔なんかしたかないわ。私、藍本家の五人の見様の中でいちばん楸瑛見様がマシだと思ってるのよ、これでも一応」 「…・ねえ十三姫、さっきも思ったけど、お前も私にかなりひどいこといってるよ……ところで護衛が見あたらないねぇ?」 「そーなのよねー。どっかではぐれちゃったのよねー」 「君が道中、盗賊《と∴ノぞ‥》を返り討《エソ》ちにして追い卸《.ト》ぎしてたらしいって情報もあるんだが」 「悪者も退治できて近隣《きんり人》の村人さんにも感謝されて路銀も稼《かせ》げて一石三鳥−」 「十三姫!」 「大丈夫《だいじようバ》。一人で無理そうなのは馬でぶっちぎったり、通りすがりの正義の味方に押しっけて逃げてきたから。それにしても近頃《ちカlごろ》馬の下手な男が増えたわねー。要鍛錬《た人−1ん》よね」 「君の馬術についてこられる男のはうが少ないだろうが! なんたって君はー」ハッと楸瑛ほ日を喋《つハ、》んだ。 「……すまない」 「いいわよ。しめっぽい顔しないでちょうだい。それよりさっきの会話からすると一」  十三姫はまだ旅装を解かず、ちらりと異母兄を見た。 「……あの元公子様に言ってないみたいね。私が三見様から『王の後宮に入ることしか『=此静蘭の嫁《よめ▼》になること』のどっちかでいい《ヽヽヽヽヽヽヽ》って言われたってこと」 「後半は考えてない」 「あら。一応理由を聞きましょうか」 「君が静蘭の嫁になって幸せになれるとはまったく思えないし、何より彼を私の弟には死んでもしたくないから。今日も再認識《さいにんしき》したけどね、何があってもそれだけは絶対ごめんだよ。弟が龍蓮だけでも笑える人生なのに、さらにお先真っ暗人生を自分から選ぶつもりはない」 「ふふ、おしゃべりになったあわ。少しは元気出たかしら?」楸瑛は異母妹を見下ろした。身なりに気を遣《つか》わないのは相変わらずだが、これでも歌舞音曲その他芸事すべてに秀《ひい》で、古今東西の書物にも通じている才媛《さいえん》だ。秀麗にもひけはとらない。  性格は秀麗よりは淡泊《たんぼく》だが、決して感情が薄《うす》いわけではない。抱《だ》き寄せようと手を伸《の》ばすと、十三姫は反射的にピタッと震《ふる》えた。が、自分から近寄り、楸瑛を抱きしめた。  楸瑛は異母兄弟の中でもいちばん親しい妹の来訪を、ようやく喜べる余裕《よゆう》ができた。 「……出たよ。曲がりなりにもかばってくれてありがとう、十三姫」 「一応兄ですからね」 「……まさか君が来るとは思わなかった」  十三番目の藍家の姫。  彼女を見ると、楸瑛はかつて一緒《いつしよ》に失ったものの大きさを思いだして、今も心が重く沈《しず》む。  −この妹が、王の後宮に送られる目がくるとは、あのころは思いもしなかった。 「でも、考えてみれば王の嫁としてぴったりだった? L楸瑛ほ十三姫を抱きしめながら、ぎゅっと眉根《ま博ね》を寄せて息を吐《上》いた。 「……ああ。ふさわしすぎるほどふさわしいよ。何《ヽ》も《ヽ》か《ヽ》も《ヽ》。君にとっても、主上にとってもね。」れ以上ない条件がそろってる。きっと君なら、誰より主上の心を理解することができるだろっ。……兄−二たちも容赦《ようしや》ないな」 「わかってたことじゃないの。三見様がいいのは頗だけよ」 「…………まあね。私の考えが廿かっただけだ上 「それもいつものことじゃない」 「……じゆ、十三姫……」 「仕方ない見様ねぇ」  十三姫は兄の背を慰《な�皇1》めるように叩《たた》いた。 「遅《おそ》かれ早かれ、異母妹《わたしたち》の誰かがくることはわかってたでしょ?なの正うっかり�花″を受けとって、うっかり王様の恋《こい》の応援《おうえん》をしちゃって。楸瑛見様は藍家直系なんだから、しょせん絶対の忠誠hなんて端《はな》から無理に決まってるのよ。……藍家のために生まれて、藍家のために死ねたら本望《は人もう》だって、ものすごく誇《ほこ》らしげに言うような人が」  楸瑛は長い睫毛《ょつげ》を肝せた。 「まったく。真面目《まじめ》に人生考えないで、嫌《いや》なことあったら逃げまくって、その場凌《しの》ぎの小手先な選択《せんたく》続けてきたから抜《ぬ》き差しならなくなるのよ。どうせ�花″を受けとるときも、ちょっと王様にイイ感じのこと言われて、カッコいいかもとか思って受けとっちゃったんでしょ」 「……‥告昌………いやその」 「王様には可哀相だと思うわ。でも、このままズルズル行くほうがもっと可哀相だと思うわ。楸瑛見様に藍家が捨てられる?」  楸瑛は目を閉じた。  その問いは、藍邸に引きこもってから、何百回と考えた。  ……答えはいつも同じだった。  生まれたときから、すべてを藍家と兄のために捧《ささ》げてきた人生。  龍蓮と自分は違《ちが》う。その道を楸瑛自身が望んで歩んできたのだ。 「…・いいや。私から藍の名をとったら、何も残らない」 「…・本当、仕方のない見様ね。結局自分で悲しい思いしてるじゃないの。でも知ってるわ。それでも楸瑛見様は最後は選ぶのよね。……藍家の男だもの」  十三姫はベちん、と楸瑛の両頬《l,ようはほ》をはさみこんだ。 「私は後宮に人らなきゃならないわ。そのためにきたの。王の嫁になる覚悟《かノ、ご》でね。私が最後で『やっぱりイヤhなんて言うのは期待しないで。それが二見様との取《ヽ》引《ヽ》の《ヽ》条《ヽ》件《ヽ》だもの」 「……わかってるよ。他《はか》ならぬ君なら、ここに来る前にイヤだといってるはずだからね」 「でもね、もう少し時間はあるわ。私もやることあるし。気になることもあるし。楸瑛見様もそうでしょうアギリギリまで時間と私を使って悩《なや》んでいいわ」  驚いたような楸瑛に、十三姫はにやっと笑った。 「私、楸瑛見様がそんなにバカだとは思ってないの。元公子様は思ってるみたいだけど」 「…・昔からそうだったよ……」 「ねえ見様、わかってる? 簡単な方法があるのよ。私を殺せばいいの。で、どっかに埋《.つ》めて行方《ゆくえ》不明ですとか別の男と駆《か》け落ちしました、とか勝手に言えばいいわ。そうすればこの話はなくなるわ。王様も喜ぶし、楸瑛見様も猶予《ゆうよ》ができる。次の異母妹《いもうと》を送りこむにしても、私ほどいい条件の妹は見繕《みつくろ》うのに時間がかかるもの。でしょ? L楸瑛は十三姫を見つめた。冗談《じょうだん》めかして笑っていたが、妹がその覚悟もしてここまできたことを楸瑛は察した。……そういう妹なのだ。 「−見くびるな。そんなことは絶対しない」  十三姫は苦笑いした。 「馬鹿《ぱか》ね見様。普通《ふつう》はするのよ。私たちは替《か》えがきくもの。……楸瑛見様がそんなだから、三見様もどうあっても王様にあげたくないって思うのよ。きっと王様が�花″をあげたのもね」そしてそんな楸瑛だからこそ、こんなに悩むはめになっているのだ。  十三姫は顔つきをかえた。 「−それじゃ、道中私に兇手《きようしゆ》を送りこんできたのは見様じゃないわね?」 「違う」  楸瑛の答えに、十三姫はホッとしたように笑った。 「十三姫……途中《とちゆう》で君が出してくれた文は読んだ」  初めて、十三姫の表情に昏《くら》い翳《かげ》りが差した。  楸瑛は妹を抱き寄せた。 「……こっちでも動きがあってね。兵部侍即がいろいろ手を回してくれている。君をしばらく後宮の離宮《りきゆう》で匿《かくま》ったほうがいいって御史台に進言してくれたらしい」  十三姫は考え込んだ。 「…・で? 見様の考えは?」 「確かに私も四六時中藍邸でお前を守ってるわけにはいかない。私自身もその離宮を下調べに行ってくるがー行ってもらうことになると思う」 「了解。《りようかい》紅家のお姫様もくるのよね?」 「そうなると思うよ。だからなおさらお前が一緒にいたほうがいい。多分秀麗殿も危ない」       ・翁・巻・   ー秀麗たちが到着《とうちやく》したのは、紫州府の隅《すみ》にある場所だった。 「あっ、ようこそいらせられました、紅御史」  秀麗は軽く裁《うなで》いた。もう何回か足を運んでいるため、顔見知りは少なくない。 「今日は牢城《ろうじよう》内の衛生環境と《か人きよう》設備を調べさせていただきます。牢へ案内してください。あと因《しゆう》人《じん》たちの全部の訴状《そじよう》を出しておいてください。特に再審請求が《さいし人せいき抽う》出されている案件と、まだ判決が出ていない未決案件は残らず出してください」 「ほっ、はい!」獄吏《ご′11−》は妙に嬉《みよううれ》しげな声をあげて、るんるんと案内する。秀麗の冷たい声と態度は別に彼に向けられたものではないのだが、そういうのが好きらしい。 「ふっ……今日も負けないわよ」 「いや、充分《じ抽・りぷ人》好かれてると思う」  ぼそっと蘇芳が呟《 「ぶや》き、皐武官が苦笑いして控《!?か》え目な肯定《こうてい》をした。−まず軽犯罪の囚人が留置されている場所へ足を踏み入れる。  扉が《とげ・り》開き、秀麗が決然と一歩足を踏み入れた瞬間、歓声《し時人か人かんけーい》と〓笛があがった。 「おっ、きた——! ひゅーひゅ〜。もっと色っぽい格好希望〜。夏・だし!」 「待ってましたぜ姐《あね》さん! 今日もかーわいー。こっち向いて〜」 「ばっかやろう! 貴陽親分衆からの通達を忘れやがったのか! お嬢《拍しよう》に下晶な声かけんじゃねぇ! 礼儀正《∫lいぎただ》しくお迎《むか》えしやがれ。じゃねtと出たあと親分衆にナマス断《で¶》りにされるぞ」 「へーい。姐さん! 今日もお元気で!?」 「ご排便《はいべん》の調子も快適で!?」 「相変わらず冷たいお顔が超素敵《ちようすてき》っす」 「ものすごくしびれるっす。サイコー。ブタ箱から出たら下僕《しもぺ》にしてくださーい」  ぴくぴくと秀麗のこめかみが波打った。−誰が姐さんだ。 「−静かになさいっ!!遊びにきてんじゃないのよっ! いいからとっとと牢城の不満その                                                                                                                                                                                                                                                                    一   ′.一   一問、言いたいことあったらいいなさい。聞いてあげるだけ聞いてあげるから。でも可愛《一�一’−Y》い女の十がいないってのはナシ! タンタソ、よろしく」  秀麗自身じゃなく、野郎《中ろう》の蘇芳が聞き取るというところで、ぶーぶーと不平が続出する。  蘇芳がそれを適当に受け流しっつ(静蘭のイジメに比べたらよっぽどマシである)、しゃがんで書き出していく傍《かたわ》ら、秀麗は設備や衛生環境を調べていく。 「……これから夏になりますので、清掃《せいそう》をこまめに。病人が出たらすぐ病牢へ移して看病を徹《てつ》底《.い》してください。関大服も洗濯《せんたく》を。古くなった牢日露即刻破棄《そつこノ、はさ》を。誰かが着服していない限り、それだけの予算は出ています。どうしても無理とおっしゃるなら上申書《じようしんしょ》を。会計監査《か人さ》をしたのーち、必要な分だけ予算を下ろします。勿論《・もちらん》切りつめられるところを切りつめた後ですが」 「ほっ、はいっ」先だって秀麗によって、囚人や配下の獄吏にやりたい放題していた獄監《ごl、か人》があっさり首になってからというもの、秀麗は妙に畏《おそ》れられ、懐《なつ》かれるようになってしまった。  もともと牢城の監察《かんさつ》は、多くの御史はやりたがらない。大概《たいがい》出世の糸口にはならないからだ。  なので、名目上は交代制だったが、秀麗が御史台入りをしてから 「新人の仕事」としてもっば  ら押しっけられるようになった。貴陽に幾《■�ヽ》つかある牢城及《およ》び、たまに泊《と》まりで紫州内に点在する牢城を見回りに行く。秀麗はこまめに行き、容赦《ようしや》なく査定をし、横暴獄吏を次々御史権限で左遷《させん》し、キッチリ仕事をしてくるので、ひと月ほどでだいぶ極悪《ごくあノ、》な環境も改善された。ついでに若い娘《むすめ》さんということで囚人から黄色い歓声を浴びるお拒様にもなった。 「いやー、陸御史以来です。ちゃんと定期的に牢城の見回りにきてくださる官吏は」  新しく獄監となった彼は嬉しそうにそう言った。その名に秀席はふと顔を上げた。 「陸御史は紅御史と違《ちが》って、親しみやすいというより、怖《こわ》かったですけど。ですが、本当にきちんと監察してくださったんです。牢城の監督《かんとく》もそうですけれど、膨大《ぼうだい》な訴状も残らず読んで、少しでも引っかかるところがあればすぐに調べて、多くの濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を晴らしてくださいました。逆に新たな罪を暴《あげ》くことも多々あって、被害者《ひがいしや》の泣き寝入《ねい》りも減りました。お若いですが、素《∫》晴《げ》らしい官吏ですよね。あの方のお仕事を拝見できたことは私の誇《はこ》りなんですL心からの賞賛の言葉に、秀麗は一呼吸おいて、笑ってみせた。 「……ええ。彼は中央でもめざましい手柄《てがら》を立てています」  多くの牢城で多くの獄吏から同じ言葉を聞いた。否応《いやおう》なく秀麗の前に立つ清雅の影《かげ》が見える。  ーやるべきことはやっている。一切《いつきい》仕事に手抜《てね》きはしない。だからこそのあの自信なのだ。  それが悔《ノ1や》しい。  認めたくないのに、秀麗はそれをHにできない。何一つ追いつけていない。仕事をこなせばこなすほど、前を行く清雅の完璧《かんぺき》な仕事ぶりを思い知らされる。 「−こんちくしょう、つてカオしてるぜ、お嬢ちゃん」  不意に牢の一つから笑《え》み含《ぷ・、》みの声が投げられた。少し低くてゆったりしたいい声だ。 「そういうカオも、結構かわいいぜ」 「……隼《しルん》さん」  秀鹿はキヅと声の聞こえた牢を振《’ー一》り向いた。  そこはもう軽犯罪者専用ではなく、死刑《しりい》寸前の者が収容される堅牢《!?んろう》なつくりの牢だ。  なぜ死刑寸前《ヽヽ》かといえば、判決や再審《さいしん》待ちでまだ刑が確定されていないからだ。  秀麗が御史になってからこの牢城に頻繁《ひんほ・ん》に足を運ぶのも、 「彼」がいるせいだ。 「今日も、あなたに会いにきたんです」 「ビーも。悪い気はしないね。もう少し胸が大きければ、俺の好みのど真ん中なんだけどな」 「小さくて良かったと思ったのは久々です。ーいい加減、牢に居座ってタダ飯食べるのはやめて、とっとと出てってくlだきい! あなたもう冤罪《えんぎい》が確定して鍵《かぎ》だって開いてるんですよ」 「あんたのおかげでだいぶ居心地《しここナリ》よくなったからな。出る気が失《う》せた」 「ふざけんじゃないですよ。ここはタダで寝泊《有と》まりできる宿屋じゃないんです!」暗い牢の奥から、くっくと余裕《よ睡う》の笑いが聞こえてくる。 「だーいぶ口が悪くなったな。もっと優《やさ》しくしてくれないか」 「働けるのに働かないで牢屋に居座って毎日しっかりタダ飯食べる人には優しくしません。働き口の紹介状《しようかいビー笥》書いてあげますから==」  見かねた皐武官が秀器に一歩近づいた。毎回こんな目論で終わってしまうのだ。 「……僕、じゃなかった自分が引きずり出しましょうか?」 「うう、ありがとうございます皐武官。で、でもこの人はですねぇ。半端《は人ば》な腕《うで》っ節じゃなくって。獄吏五人がかりでも引きずり出せなくて−」 「……あのう、一応自分も羽林軍武官なんですけど……そんな弱く見えますか……lぶ 「へえ?」牢の奥の暗がりに座っていた男が、初めて興味深げな視線を皐武官に投げた。  ふらりと立ち上がる。その二動作に、皐武官はギクリとした。反射的に剣《け人》の柄《つか》に手を掛《カ》ける。  格子《.−.つし》旭近づいてきた糎でい皐武官は細めは男の顔を聞髄に見ることができた。け引き締まって浅黒い肌、伸び放題の髭と髪で顔は半分隠れているがー何より目を惹いたのは、右目をぎっくりとつぶしている傷跡《さずあと》だった。野性味のある顔立ちは燕青を思い起こさせるが、太陽のようにあっけらかんとした燕青と違い、彼はどこか物憂《もーのlう》げな翳《かげ》りがある。そして額には、死刑囚《し!?いしlやう》に彫《l》られる入れ墨《ずみ》がくっきりと刻まれている。  彼は皐武官を眺《なが》め、口の端《l》を軽くあげた。 「いい反応してるが、まだだな。もう少し修行《しゆぎよう》を積んでくれば、ちょっとは遊べる−」 「隼さん!」  秀麗は格子越《ご》しに隻眼《せきがん》の男の衣服をつかんだ。頭に角《つの》が見えるような怒《おこ》りっぷりだ。  皐武官は知らず、詰《つ》めていた息を吐《は》き出した。じっとりと掌に汗《てのひら′あせ》が渉《にじ》んでいる。 「いい加減、本当、出てってください。外の世界はいいですよぉ。季節は初夏! 薄着《.▼.J一一・、1》で胸の大きなかあゆーい女のコもたっくさんいますよぉ。それを眺めながら汗水《あせみず》垂らして畑仕事するってゆtのはビーですか。ウリ畑で素敵な出会いがきっとあなたを待ってるはず!」 「他の女じゃなくて、あんたが会いにくると思ってずっと居座ってたのに、切ないな」 「はいはいはいはい。私も格子越しじゃないあなたとお会いしたいわ。うふふオホホ」もはや後半はやけくそに笑う。ちょうどやってきた蘇芳が感心して手を叩《たた》いた。 「すげー。あっちこっちで超モテモチじゃん。口説かれまくり。やっぱ野郎しかいない場所だと、どんな花でも締麗《きれい》に見えるもんなんだな……まあ選ぶ余地ないもんな」 「こらタソタンひと言も二言も多いわよ!」 「まったくだ。あんまり正直にダダ漏《も》れしてると、本気で好きになった女に信用されないぜ」 「全然慰《なぐさ》めになってないことを真顔で言わないでください」  隻眼の男1年は間近にいる秀麗をつくづくと眺め、ふっと笑った。 「……あんたに会うのが楽しみだったってのは本当なんだぜ。惚《は》れた女に似てるからな」  秀麗は隼を見返した。 「楽しみだ《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》って、ことはー」 「出るよ。あんたに怒られるのも悪くないが、嫌《きーら》われたくはないからな」  胸元《むなもし」》をつかむ秀麗の細い腕を壊《こわ》れ物を扱《あつか》うようにそっと外し、鍵のかかっていない扉から長身を少しかがめるように出てくる。今までテコでも動かなかったことを思えば拍子抜《けようしぬ》けするは  とあっさりした態度である。さすがの秀麗も呆気《あつけ》にとられた。 「……どんな心境の変化が?」 「別に。あんたにもう一度会ってから出ようと勝手に決めてただけだ」  別になんてことのない言葉だが、彼の豊かな声でいわれると別の意味に聞こえる。  秀麗は男の額の入れ墨にHをやった。今回の冤罪で彫られたものではない。調書を見ると、悦は何度も死刑にされかかっている。あからさまに濡れ衣とわかるものでも、どうしてか彼は一度も抗弁《こうペ人》しないのだ。まるで死にたがっているように。ギリギリで救い出されてほいるもの誓そのうちの一回で、入れ墨を彫られるまでに奉ったのだろう。おかげで、街を歩くだけでも何度も通報されるし、まともな職にもつけないでいる。  秀麗は深々と頭を下げた。 「…・今回の件、官吏として本当に申し訳なく思います。すみませんでした」 「なんで謝る。あんたがここに放り込んだわけじゃないだろ。むしろ罪を晴らしてくれた」 「無罪の方を牢《ろ,ソ》に放り込んだのにほ変わりありませんから」 「牢暮らしは結構気に入ってるから気にするな」 「−隼さん」  秀麗は仰向《あおむ》いて隼を睨《にら》み付けた。 「あなたも無実なら無実と、そう主張してください。死刑にされかかってまで何も言わないなんて、全然カッコ良くもなんでもないです。そういうのはただの抜《血》け作っていうんです」  隼は片方しかない目をちょっと丸くし、次いで小さく苦笑いした。 「……ほんと、似てるぜ」 「え?」 「いや。あとまだ何か言いたそうな顔してるが?」 「職がないなら、私が雇《やと》います。あなたに働く気があるなら、ですが」  これには後ろの二人が仰天《ぎようてん》した。 「おいこら! なに考えてんだあんた!」 「そうです。身のこなしだって素人《しろうと》じゃないですし、慣例通り牢城軍に送って兵役《へい.えさ》をさせたほうがよっぽど役に立つと思いますよ」 「二人の言う通りだぜ。いくら俺がいい男でも、死刑囚を使う官吏様なんて外聞悪いだろ」秀麗はむっと隼を振り仰《あお》いだ。 「あなたは死刑囚じゃありません」 「同じだよ。この入れ皐がある限りな」  隼は額の入れ墨を軽くつついたあと、くしやつと秀麗の頭をなでた。 「悪いがその申し出は断る。でも、嬉《うれ》しかったぜ、お嬢《じよう》ちゃん。俺の濡れ衣を晴らしてくれたあんたに、一つ教えてやろうと思って待ってたんだ」隼は長身をかがめ、秀麗の耳元で囁《ささや》いた。 「……『牢屋で死んだ幽霊《ゆうれい》』に注意することだ」 ( 「牢屋で死んだ幽霊』……同じこと言われるとは思わなかったわ)一通りの仕事を終えて牢城を出た秀麗は、隼に言われたことに頭を巡《め�》らした。 「……タンクソ、さっき獄l更《一了ヽlり》のみんなから『牢屋で死んだ幽霊h聞き取ったフ」 「きいた。一人か二人かな。この車城で刑死したやつじゃないけど、噂で聞いたことはあるって。結構有名らしいよな、この『牢屋で死んだ幽霊』」 「貴陽の牢城で?」 「うんにゃ。別の州から赴任《・→にん》してきた獄吏も、たまに同じ話見聞きしたっていってたから」  秀鹿は顎《ムご》に手をやった。死んだら幽霊になる、という理屈《!?J、つ》はわかるが−。 「……なんで牢屋限定なのかしら。だいたい、通りを幽霊が歩いてるのを誰かが見たって、なんだって死んだ場所が『牢屋hってわかーあ!」皐武官が遅《おく》れている軒《くろま》を呼びに行っているため、秀席と蘇芳はポッソと路上に立っていた。  紫州府の一角ではあるが、牢城という場所のため、半ば独立していて民家もほとんどなく、ものすごく寂《きげ》れている。カラスもかーかー鳴いていて、夕暮れの現在はかなり気味が悪い。 「なに? なんか閃《けらめ》いたの?」 「閃いた! あとで一緒《いつしよ》に調べるわよタンクソ!……あら?皐武官じゃない」  軒を呼びに行ったはずの皐武官が、なぜか猛然《もうぜÅ》と走ってくる。 「−絶対動かないで‖‥」  そう叫《きけ》ぶと同時に彼は弓箭《ゆみや》を電光石火で引き抜き、秀麗たちに向かって放った。  秀腰と蘇芳がその言葉通り動かなかったのは、別に皐武宮に従ったわけでもなんでもなく、                                                                                                                                       �▼.  す.  わけがわからず呆気にとられていたからだ。二人が怪《——》我《カ》をしなかったのはそのせいと、何より皐武官の針の穴をも射抜く正確で目にも留まらぬ弓射のおかげだった。  相変わらず状況が《豆しようき▼よう》わかっていない二人は、突如《とつじよ》うしろで聞こえた悲鳴に振り返った。 「……へ?つて、ええ!?」 「おわー! なんだなんだなんだあ!?いつのまにいたんだこいつら!」  いつのまにかすぐ後ろまで農民の姿をした男たちに近寄られていた二人は仰天した。  農民の姿をしていても、覆面《ふくめ人》に刃物《rl りの》をもっている。あやしいことこの上ない。  皐武宮の箭《や》ほ正確に中の一人の腕《・つで》に突き刺《さ》さっている。  傍《そば》に行くまでまだ距離《11ょり》があるー皐武官はつづけざまに威嚇《いか∵、》弓射をして男たちを引き離《〓吉》しにかかりながら、男として当然すべきことを叫んだ。 「タンタンさん、僕が行くまで紅御史を守ってください!」 「無理!」  しかし人として正直な答えが返ってきた。皐武官は状況も忘れて思わず 「えええー!?」と叫んでしまった。そんな! しかし当の秀麗は別にガヅカリしたりはしなかった。むしろ秀麗を引っ張って当てずっぽうに逃《こ》げようとする蘇芳を慌《あわ》てて引き留め、誘導《細うごう》する。 「あっタソ二グソばかっ! そっちに逃げたら皐武官が困るじゃないの! こっちこっち!」  まさに逃げて欲しいと思った場所に正確に逃げてくれる。皐武官はポロリときた。 (……紅御史のほうがよっぽど頼《たよ》りになる……) 「なんであんた慣れてんだー!」 「ダテに修羅場《しゆらば》はくぐってないわよ! ええうとええうと、こないだ凛《りん》さんからもらったもの−タンタン耳塞《ふさ》いで‖‥」秀塵は袖《そで》に縫《ぬ》いつけてあった袋《ふくろ》をむしりとり、後ろの男たちへ投げつけた。  地面に叩きつけた瞬間、《し抽人かん》盛大な爆発音《ば′1はつおん》がした。軽い秀麗は思わず体勢を崩《ノ、ず》したが、慌てて地面に手をつき、反動でまた走り出す。手がすりむけた感覚がしたが、構ってられない。 「おわわわなになになんだあれlーlll  つ!?」 「かんしゃく玉よ! 凍さん特製っ。いいから走って!」  男たちが足を止めた隙《すき》に、皐武官は火箭用《ひやよう》の矢を取り出し、素早《すばや》く火打ち石で点火すると牢城の壁《かペ》を越《二》えるように打ち込んだ。  すぐに 「わー!」 「なんだなんだ!」という声が聞こえたかと思うと、牢城の門が開き、わらわらと武器を持って警護の武更がでてきた。男たちはそれを見ると、一糸乱れぬ動きで締霞に逃げ去った。皐韓升はあたりを注意深くさぐり、もう大丈夫《だいじようぶ》だと確信して弓をさげた。  秀麗と蘇芳は呆然《ぼうぜん》とした。 「な、なに今の……」 「俺初めてだよ狙《ねら》われたの……手、すりむいてんじゃないの」 「ああ、さっき……」  秀麗は掌の泥《てのひ・りごろ》を払《はら》ったが、別段大したことはなかった。すぐ血が止まるだろう。そう患い、手巾《しゆさん》で縛《しぼ》ったあと、牢城の馬車を借りて城に帰ったのだった。       ・巻・器・  正体不明の男たちに襲《おそ》われた秀麗と蘇芳は、よろよろと御史台に戻《もご》った。  自室の扉《とrr・り》を開け−秀麗は死にたくなった。最後の最後にー。 「……清雅……もうあんたの顔は見たかないわ……お願いどっか行って……」 「ご挨拶《あいさつ》だな。しかしまたズタポロで帰ってきたな。通りすがりの土木工事を手伝って穴掘《ほ》りでもやってきたのかフ」 「うっさいわよ……つたく何の用なのよ」 「馬鹿《ぼか》か。仕事の話に決まって�」清雅は秀鹿の手巾の巻かれた手に目を留め、訝《いぷか》しげに眉《ま抽》を埋《けモ》めた。 「……おい、お前、その手ちゃんと手当てしたのか?」 「ヘアああ、さっきいろいろあってちょっと倒《たお》れてすりむいただけ−えっ!?」  何気なく自分で巻いた手巾に目を落としー秀麗はぎょっとした。手巾はぐっしょり血で濡《山》  れ、腕にまで血の糸が垂れているほど失血している。幸い柄物《が・∵? 山》であまり目立っていないが、これが真っ白な手巾だったら途中《し」ら柚う》で蘇芳に医者に連れていかれたかもしれない。 (だって、確かにすりむいただけだったわよね!?)  秀麗は慌てて蘇芳を残して隣《となり》の虫へ飛んでいき、瓶《かめ》の永を桶に汲んで血を洗い流した。l 「あれ、やっぱりそんなひどくない……け、ど」  傷自体はたいしたことがないのに、なぜか血が止まらない。とっくに固まっていていいはずなのに、じんわりと確実にしみだしてくる。秀魔は必死で落ち着こうと息を吸った。  水に、ゆるゆると血の筋が流れていく。それを見ている内にぐらぐらと臼帆《めとh》がしてきた。 (ちょっと、ちょっと待って……)  そのとき、何かがコロコロと目の前を転がってきた。 「……クロとシロ……?」  二匹《nさ》の毛玉は、ぼちゃんと桶《おけ》に飛び込み、秀麿の掌にそっとすりよった。秀麗がクロとシロを掌に乗《の》っける格好で水から出すと、二匹はまたコロコ口とどこかへ行ってしまった。 「??水浴びに来たんじゃないわよね……」  ハッと掌を見ると、血はほとんど止まっていた。  秀麗は気が抜《ぬ》けてへたり込んでしまった。 「……おい」  やってきた清雅に乱暴に腕を引かれても、秀廊はもう文句を言う気力もなかった。  そのことに拍子抜《ひようしね》けした清雅は、改めて秀麗の手を見た。さっき見た血からすると肉までズル剥《む》けてるかと思ったが、単なる擦過傷《さつかしよう》だ。血も止まりかけている。 「……別になんてことない擦《す》り傷だろうが。泣くほど痛いのか?」 「誰が泣いてるってのよ」 「そうかよ。鏡があってもそういえたらたいしたもんだぜ」  清雅は立ち上がると、やけに勝手知ったる様子で救急箱をさぐりだしてきた。  秀麗は呆《あさ》れてそれを眺《なが》めた。もうつっこむ気もない。 「……あんた、もしかして髪紐《かみひも》の位置まで知ってるんじゃないの?」 「知って得するならな。−変わってないならそこにあるだろうと思っただけだ」 「は?」 「ここはオレに与《あた》えられた最初の室だ」  秀麗は驚《おごろ》いた。このいちばん小さな、風通しも日当たりも悪い室で、清雅が一人きり膨大《ぼうだい》な書翰《しよかん》や巻書を積み上げて仕事をしている姿がなんとなく思い浮《う》かんだ。  今の尊大な姿からは想像もつかないが、清雅にも確かにそういう時期があったのだ。  今の秀麗と同じように。  清雅は秀贋の考えを見透《みす》かしたように、チラリと視線を投げて寄こした。 「だからといって、オレと同じになれるとか誇大妄想《こだいもうそう》するなよ?」 「ご心配なく。もとよりあんたと同じになるつもりはサラサラないわ」 「言ってろよ。ま、同じじゃオレもつまらないからな。叩《たた》き落とし甲斐《がい》がない」  清雅は水に濡れた秀麗の手を手巾でぬぐった。拍子《けようし》にカッチリとした銀の腕輪《うでわ》がのぞく。  救急箱を開ける段になって気づいた秀麗はおののいた。 「……ま、まさか手当てしてくれるつもりなの〜何? 何の天変地異? あんた本物?」 「傷口に塩をすりこむ絶好の機会をオレが見逃《ふのが》すかよ」 「いやう! あんた絶対やるでしょ!!結構! 大きなお世話! タタタタンターン‖‥」 「なんの序曲だよ。あのタヌキなら即行長椅子《そつこうながい.す》で眠《ねむ》り込んでたぜ」 「………・タ、タソタン〜…………いだっ! しみるしみるしみるー!」  豪快《ごうかい》に消毒液をふりかけられ、秀麗は悲鳴を上げた。絶対嫌《いや》がらせだ。 「ばか清雅! マメ吉《きち》! もちょっと優しくやんなさいよっ」 「なんだマメ言って。お願いします清雅様っつったら考えてやらんでもない」 「冗談じ《じようだん》ゃないわ。言ったって絶っっ対やんないくせに!!」 「だいぶわかってきたじゃないか」  手を引っこ抜こうとしても、清雅の力が強くてびくともしない。 (私より頭半分背が高いくらいなのに、なんなのこの力!?)  涙目《なみだめ》でぶるぶる痛みを堪《こら》えている秀麗を見て、清雅が笑う。完全に面白《おもしろ》がっている。 「′1くく〜あああんたって男はっっ」 「最低、か? でも仕事は完璧《かんペき》だろ。不正も手抜《てぬ》きも一切《いつきい》なし。牢城《ろうじよう》で聞かなかったか?」 「ええ。すんごい感謝されてたわよ。この人でなしな性格をよくぞ隠《か・ヽ》してたもんだわね!」 「不正なんかするヤツは三流だ。自分だけはバレないなんて本気で思ってやがる。目先の利益に目が眩《ノ、・り》んで自分から弱みをつくりやがって。あとで我が身に撥《は》ね返ってくるなんざ考えもしない無能な馬鹿どもだ。ま、おかげでオレが弱みをたっぷり握《にぎ》れて出世できるがな」 「あんたは、あんたに感謝してる人のことは何とも思わないわけフ」 「感謝してるぜ? ああいう愚民《ぐみん》どものおかげでオレが出世できるんだからな」清雅は秀麗の顔を見て、皮肉げに唇を吊《くちげるつ》りLLげた。 「なんだ?まさかまだオレに妙《みよう》な期待をしてるわけじゃないだろうな。オレほ自分のために出世するんだ。そのためた仕事は完璧にこなす、あとでつけ込まれるような三流な真似《まね》もしない。Lのヤツらは引きずり下ろして、上がってくるヤツは蹴落《H..お》とす。それだけだ。どこぞの誰かのために仕事してるわけじゃないんだよ。感謝? 馬鹿《げか》馬鹿しい。それより陥《おとしい》れられた自分の馬鹿さ加減を見直すべきだと思うね。学習能力のカケラもない無能っぶりには来れるよ」 「…・あんたのすべては自分に帰結するわけね」 「そのとおり。だから手抜きも不正もしない。すべて自分に返ってくるからな。公平だろフ」 「…・どんなに仕事ができても、あんたのそういうところは絶対認めないわ」 「オレもお前の甘ちゃんなところが大嫌《だいきら》いだよ。思ったより根性《二んじよう》あったのほ認めるがな」きゅっと包帯を結ぶ。清雅はこれ見よがしに頬杖《ほおづえ》をついて、何かを待つように秀麗を見る。  いちいち嫌《こlや》みな男だとカチソときつつ、秀麗は言うべきことは言った。雑ではあったが。 「…・くっ……ど、どうもありがとうございました!」                                           くつ・�、 「どういたしまして。快感だね、お前を屈服《�》《、》させるこのカソジ……」  清雅はくつくつ笑うと、豹変《けようへ人》するように仕事の顔に戻った。ここにきた目的を告げる。 「——十三姫が到着《とう←りやく》した」  秀麗もハッと顔を上げた。 「準備が整い次第《し�い》、お前には後宮に行ってもらう。おそらく離宮《−}き抽う》を借り受けることになるだろうが、十三姫とお前がそこにいることは当然極秘《ご・・い.》だ」余計なことを一切言わない清雅に、秀麗も真顔になる。  ……どうしても後宮じゃなきゃだめなの?」 「不満か」 「確かに警護は厳しいけど、いちばん暗殺や不審死《ふしんし》が多い場所でもあるじゃないの」  秀鹿自身、覆面貨妃《ふ・ヽめんき!?l》だったにもかかわらず死にかけたのだ。  清雅は眉を上げた。……塩の件でも思ったが、この女は確かに頭の回転は悪くない。 「だからだ。あんまりガチガチに固めて兇手が《きよ∴ノしゆ》まるで出入りできなくても困る。ほどよくゆるくてちょうどいい。いいか、十三姫の警護は武官の役目で、オレたちの役目は背後関係を調べることだ。てっとりばやいのは兇手をとっつかまえて吐《よ》かせることだ」 「囲《おとり》ってわけ」 「死んでも困らない替《か》え玉のお前がな」  秀麗は顔を引きつらせた。 「わ、わかったわよ。……で、通常業務も同時並行してやれっていわれたわよね」 「机案仕事は後宮でやれ。離宮の準備を整えるのと並行して一室に必要な仕事を運ばせておく。お前自ら目を通す必要のないものはあのタヌキにやらせろ」 「外出は?」 「十三姫の扮装《ふんそう》して思う存分ウロウ? しろ。オレが一緒《い 「しよ》についていってやる」 「あんたが!?」 「お前に一人でウ? ウ? されて脚になる間もなく死なれても無意味だからな」 「だって……あんたの仕事はフ」  認めるのは癖《しやく》だが、清雅は本当にいつ寝《ね》てるのかと思うくらいの仕事を一人で請《う》け負っている。多分戸部《こ�》の黄《こう》尚書にもひけはとらない。秀麗の仕事に付き合ってる暇《ひよ》などないはずだ。  すると、清雅は小馬鹿《こげか》にしたように椰旅《やゆ》の笑みを浮かべた。 「お前と比べるなと言ってるだろう。オレがつくのはお前の外出時だけだ。やりくりすれば充《じゆう》分《ぶ人》仕事はこなせる。幸い上級御史と違《ちが》って、裁判関連やら議事監察《かんさつ》やらの煩雑《は人ぎつ》で面倒《めんごう》な日課義務も少ないからな。自分次第でいくらでも仕事はできるといったはずだが?」秀麗はふと顔を上げた。……もしかして、清雅が下級の監察御史に留まっている理由の一つがそれなのだろうか?(……確かに上級の侍御史《じぎよし》になると、あれやこれや義務が増えるし)  いかに能力が高かろうが、機動力としてはどうしても落ちざるを得ない。人数が少ない御史台だからこそ、皇毅はわざと清雅を出世させずに戦力として使っているのかもしれない。 (でも、出世意欲満々の清雅がそれをおとなしく受け入れてるってのは、……葵長官となんか取引でもしてるのかしら……)侍即の地位まで一気に上り詰《つ》めた絳攸と比べると、清雅は倣慢《ごうまん》な性格と裏腹に、静かに機を持つ辛抱強《しんぼうづ上》さを備えているのは確かだ。秀麗と同じ監察御史は明らかに清雅に不釣《ふつ》り合いだ。  なのに焦《あせ》ったり、卑下《ひげ》したりもしない。一必ず出世できる自信があるのだ。  だからこそ、勝負をかけてきたときの清雅に、きっと万に一つの失敗も期待できない。 「当分は後宮で暮らしてもらうことになる。家の畑仕事やら収穫《し軸うかく》やらは誰かに頼《たの》んでおけ」  後宮。貴妃として猫《ねこ》をかぶっていた頃が蘇《ころよみがえ》る。……あれから結構時が経《た》っているが−。 「…・いつまで?」 「兇手の背後にいるやつの面が割れたらか、もしくは正式に藍楸瑛が十三姫を後宮にあげて、后妃《こうけ》か妾妃《しようけ》の位につくまで、だな。警護も格段に厳しくなる上、お前という替え玉を撒《よ》き餌《え》にフラフラさせるのも難しくなる。できればその時までにある程度つかんでおきたいもんだ」秀麗は意識してゆっくりと息を吸った。清雅の理知的で見透かすような眼差《まなぎ》しは、知ってい《ヽヽヽヽ》る《ヽ》の《ヽ》か《ヽ》い《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》の《ヽ》か《ヽ》まるで判断がつかない。秀麗の反応を観察しているようにも思えるし、単に秀麗の思い過ごしかもしれなかった。−清雅が洗いざらい秀麗のことを調べたなら、二年前の春、街から姿を消していたことは簡単に調べがつく。その期間胃大師が後宮に誰かを入れた  という噂《うわさ》も高官の間で流れた。清雅ならもっと確実な情報をもっていても不思議ではない。  ……どちらにせよ、秀麗から墓穴《ぼ.けナつ》を掘《ほ》るような真似はできなかった。 「わかったわ」 「離宮の準備が整ったら連絡《れんらく》する。あと一日二目だ。−以上」  清雅は言うだけ言うと、さっさと出て行ってしまった。  秀麗は額を押さえて椅子に座り込んだ。すると、寝たふりをしていたのか、隣室から蘇芳がひょっこりやってきてお茶を掩《一V》れてくれた。  秀麗はありがたくそれをすすった。なんだかどっと疲《つか》れて、感もゴチャゴチャだ。   −いつもいつも、負けた気になる。清雅は一人ですべての手配を終えていたのに、秀麗ときたら通常業務を必死にこなすだけで精一杯《せいいつばい》なのだ。  秀鰭の顔を見た蘇芳が片眉《かたよ博》を上げた。感情豊かな女なので、ここ最近、顔つきでどんなことを思ってるかくらいはわかるようになった。 「…・あのさt、なんかわかんねーけど、焦るなよ」 「……タ言/タン……だって私の仕事でもあるのに、もうすでにやることなんもないのよ」 「よかったじゃん。代わりに仕事やってくれてやりい〜、くらいに思っとけば」  秀産は目をパチクリさせた。……え〜 「あんた十八なんだぜ。官吏も二年目。それでセーガに引けとらないなんて絶対不可能だろ。あいつだって六年かかってあーなったんだぜ。毎日やること山積みで駆《か》け回ってるあんたが、  これ以上何をどううまくやろうっての。人の助けは借りて恥《はじ》じゃないだろ。相手がセーガでもさ。ステキな先輩《せんげい》に助けられちゃった〜ウフって喜んどけって」 「……ぐ……そ、そらホソトにステキな先輩だったら喜ぶけど、清雅なんだもん……」 「んじゃ俺だったらフ」 「素直《すなお》に喜ぶわね」 「じゃーステキな先輩は俺だと思っとけよ。せっかく楽さしてもらったのに落ち込むはうが損だろ。他に使える時間が増えて嬉《うお》しくないわけフ」なんだか無茶苦茶な論理だと思ったが、その通りな気もした。ストンと心が軽くなる。  静蘭のように優《やさ》しく慰《キぐさ》めるわけでもなく、燕青のように強く上に引っ張り上げてくれるわけでもない。けれど蘇芳の言葉は、秀麗の中にいつでも水のように染《し》みこむ。  頑張《がんば》るなといってるわけではない。自分の身の丈《たけ》をよく考えろと、焦る秀麗の頭を冷やす。  そして確かに、今の秀麗では清雅と同じ仕事を同じ速さでやることは不可能なのだ。それなら確かに、やってもらって得したと喜ぶ方がずっといい。 「……そうよね。そうだわ。ありがとタソタン」  泣いたカラスがなんとやらの秀鹿に、蘇芳は呆《あき》れ半分に思わず笑った。 「立ち直り早すぎ」 「いいじやないのよ。よし、じゃあ頑張るわよタンタン!」 「いや、オレ寝る。ごめん、マジで限界。あ、さっき帰りにいってた、『紫州における月別と牢獄別《ろうごくべつ》の死刑者《しけいしや》数』ってやつ、出しといたから」  蘇芳はよろよろと長椅子《ながいす》に倒《たお》れると、本当に寝てしまった。どうやら清雅が帰るまで必死で起きてくれていただけだったらしい。  毛布をかけてやり、秀麗は静かに執務室の机案《つくえ》に戻《もビ》った。資料が箱に山積みされているのを見て、にっこり笑う。  ふと、さっきの清雅の話を思い返す。   −もう一度、後宮へ。  なぜだろう。秀麗は懐《なつ》かしいと思ったけれど、同時に心の奥が奇妙《きみよう》に痛がゆい心地《ここち》がした。  あれから二年が経った。すべてが変わったとは思わないけれど、決して同じではない。  すべては夢のように、箱に入れて秀麗の中でそっと奥の棚《たな》にしまっておいたのに。  ……いつか取り出し、懐かしく眺《なが》めるHが来るとしても、こんなに早くではなかった。  あの夢のような現実は、まだ想《おも》い出になりきれていなくて。秀麗も劉輝も、心のどこかで、あの夢のつづきを見られるのではないかと、思っている。  けれど秀麗は知っていた。恐《おそ》らくは劉輝も。あれは夢だったのだ。影《かげ》のない夢を、見たのだ。  あの桜の後宮に、戻れる日は二度とこない。 (……さあ、私は私の仕事をしなくちゃ)  劉輝の妃になる、十三姫を守るために。  それが秀産が自分で選び、望んで歩きはじめた現実《いま》だった。      ■■書▼寅彼中に廻るいくつかの歯貪  蘇芳の出してくれた資料を使って、月別、牢獄別の死刑者数を書き出していった秀麗は、きりのいいところで眉根《まゆね》を寄せた。 「……やっぱり少しおかしい……偏《かたよ》りがあるあわ。てことはもしかして他州も�」  秀麗は欲しい調書が積んである書棚《しよだな》を見上げ、冷や汗《あせ》をかいた。どう考えてもこれは−。 (……ハシゴ使えば届くけど……重くておろせない……)  ちらりと蘇芳を見る。すやすやとよく眠《ねむ》っている。今日の件を思えば起こすのは忍《しの》びない。  他の御史もいない。入ってみて秀層も知ったことだが、本当に御史の数は酒落《しや .1》にならないくらい少ない。御史台三院の全御史を含《.Jく》めて、おそらく二十人いるかいないかだ。そのうちいちばん数が多い監察御史はほとんど地方に出払《ではら》っているし、他の御史も常にどこぞへ出かけて、いまだに秀麗が御史台を歩いていてばったり出くわすといったら清雅と畳樹くらいなのだ。 (ていうか御史台で曇樹様によく出くわすほうが問題よね……)  秀麗が意を決し、とりあえず自分でやってみようと書棚を見上げたときだった。 「……何をとってほしいんだ?」  聞こえた声に、秀麗は驚《おどろ》いた。いつでも唐突《とうとつ》に現れる少年である。 「リオウくん……! どっから入ってきたの。じゃなくて!」  秀麗は慌《あわ》てて辺りを見回し、誰もいないことを確認《かくにん》する。 「ダメよ! 御史台に入ってきちゃ! 清雅に発見されたら背後霊《はいごわい》になられるわよ!」  背後霊?リオウは怪訝《けげ人》そうに首を傾《かし》げつつも、書棚に寄った。 「仙洞令君の官位はいつでも御史台に入れるが」  秀席はリオウを見直した。……そうだった。通達がきてはいたがー。 「……仙洞令君になったのよね、リオウくん」 「官位でいえば葵皇毅より上だ。で、何をとってほしいんだ?」 「え。そんな。私にだってとれないのに1」 「……あんたと比べるな。だいたいあんた、手を怪我《けが》してるだろうが」  秀麗はハッと清雅が巻いてくれた包帯を見た。……忘れていた。  止まらない血の印象を忘れたくて、秀麗は慌てて書棚の上を指さした。 「あ、その……上の、そう、積み重なってる冊子の箱をとろうと−」 「ほらよ。これでいいのか」  梯子《はしご》に登り、書棚の間から山盛りの調書の箱を、リオウは楽々とおろしてきた。 「……ありがとう。リオウくん、力持ちね」 「別に。ただの男と女の差だろ」  秀鹿はリオウを見上げた。なんとなく、立ち去りがたい様子に見える。珍《めずら》しい。 「……私にどんなご用? お茶飲んでくエ 「……茶なら俺が滝《t.ヽ》れる。あんまり男になんでもかんでもしてやると、それが当然だと思って、つけあがるぜ。少しはやってもらうことを覚えろよ。男と同じように仕事するなら尚更《なお斗、・り》だ。もともと女のほうが力も体力もないし、頑丈《がんじよう》でもないんだ」秀麗は目をバチクリさせた。まさかこんなことをいわれるとは。 (清雅とは偉《えら》い違《らが》いだわ……爪《りめ》の垢《あか》でももらって茶にいれて出してやろうかしら) 「優しいわね、リオウくん」 「別に。うちの二族なら普通《・わつう》のことだ。お前みたいなほうが珍しい」  かかあ天下なのかしら、と思いつつ、リオウがお茶を掩れてくれるのを見つめる。ふと、リオウが一瞬《いつしl小人》何かを探すように視線を巡《めぐ》らしたのに気づいた。  秀麗はちょっと考え、ピソときた。  ヨ《こ二》坤弾《け》いたら聴《さ》いていってくれるフ」 「…・仕事があるんじゃないのか」 「一曲くらいなら気分転換《てんかん》になるもの。リオウくんがよければ、だけど」  リオウは少し蹟躇《ためら》ったのち、議《うなず》いた。  秀麗はしまっておいた二胡を取り出し、眠っている蘇芳を考えて子守歌《こもりhつた》を弾くことにした。  リオウはしばらく黙《だま》って聴いていたが、湯呑《博の》みがカラになったあたりで、ぼそっと白状した。 「……王、に、傷つけることをいった……かもしれない……」 「……劉輝に?」 「別に嘘《うそ》を言ったとは思ってないが、言い過ぎた……と思う」  リオウは『無能』と、特殊《と・ヽしゆ》な生まれのせいで、一族でも誰かと関《カカ》わることがほとんどなかったから、こういったことがよくわからない。悠舜にたしなめられたあとも、なんだかスッキリしない。胸に何かがわだかまって、落ち着かない。こんな奇妙な感覚は初めてだった。あれから数日たつが、王と会ってはいない。  秀醇は二胡を弾く手を止めなかった。リオウの珍しく落ち着かない様子の原因はそれか。 「……劉輝に直接謝った?」 「……いや」 「じゃあ、行ってきたほうがいいわ。劉輝は優しいから、謝ればきっと許してくれるわ。そうしたら、ちゃんと自分の宴で眠れるわよ。……私がいえた義坪じゃないんだけど」……時々、何もかも捨てて、官吏をやめて、後宮に入るのもいいか、と思うこともあった。  劉輝に愛され、劉輝が訪《おとず》れるのを待ち、二胡を弾き、桜の下でお弁当を食べて。たまに落ち込む劉輝を支え、時には叱咤《しった》し、疲《つか》れたときには優しく慰める。もちろん価値のある人生だ。  引き替《か》えに、貴妃のときと同じく、事が起きても秀麗には何も知らされず、知ったとしても別に何かできるわけでもなく。  ……劉輝が玉座で、朝賀の時のように泣きそうな顔をしていることも、知らずに。  官吏にならなければ、劉輝の王としての顔を知らなければ、そういう人生も、もしかしたらあったかもしれない。けれど知った上で、選ぶことができるのなら。  たくさんの人に囲まれても、独りぽっちのようなあんな悲しい顔は見たくないと思ったのだ。  それに、紅家とは名ばかりの秀麗が、後宮に入って何か役に立てるとも思えない。  何より、桜の下で、約束をしたのだ。荷物が一人で重いなら、一緒に持つと。……一緒に……。  ……けれどそれも、秀麗の我健《わがまま》なのだろう。別に秀麗がいなくても、朝廷《ちようてい》は回る。官吏なんて大勢いる。全部が全部劉輝の敵でもない。楸瑛も終値もいる。今の秀麗が味方になろうがなるまいがたいした違いもない。皇毅の言う通り、たとえ死んでも誰も困らない程度の存在だ。  それでも他《ほか》ならぬ劉輝自身がそう言うまでは。  秀麗が先にあきらめるわけにはいかない。劉輝に対して胸を張れなくなるようなあきらめの仕方だけはしたくない。それまでは、あの約束は生きている。秀麗はそう思っている。 「謝っても許してくれなかったのか?」  リオウの言葉に、秀麗は我に返った。苦笑いして、首を横に振《ヽ》る。 「……まあ、意地の張り合いってとこかしら。でもリオウくんなら、劉輝も意地なんか張らないと思うから、大丈夫《だいどようぷ》よ。きっと待ってるわ。劉輝はあなたのこと好きだもの」 「…・好き? あいつが?俺を?」リオウの黒よりも深い瞳《ひとふ》が小さく見開かれる。秀麗は笑ってしまった。 「そうよ。劉輝の好意はものすごくわかりやすいじゃないの。おおっとぉ、つて思うくらい」 「……鳩《はと》が飛んでるようには見えたが、それは知らなかったな」 「・…そうね、鳩は飛んでそうね。多分飛んでるわ。でもあれがわからないっていうと、これから先女の子に好意を寄せられても全然気づかないうちに終わっちゃうわよリオウくん……」子守歌の余韻《よい人》が残る内に、リオウは音もなく立ち上がった。 「俺は……お前の二胡ほ……嫌《き・り》いじゃない」 「あら、嬉《うれ》しいわ」  秀魔を振り返り、偶然その相《〜、うぜ人ヽヽヽ》に気づいてリオウはギクリとした。 「……お前……体の具合が悪いとか、おかし事とか、ないか」  秀麗は息を呑《rレ》んだ。包帯が巻かれた掌《てlの!?・りV》を、隠《ム�J、》すように握《二ざ》りしめる。 「……どうして?そんなに顔色悪く見える? L 「……い、や……。何かあったら……言いにこい。仙洞省……いや、うちの一族、なら。……なんとかできるかもしれない……」秀麗は目を丸くした。そうか、確かに仙洞省なら、多少のlおかしなことにも答えをくれるような気がする。今はあれやこれやで忙《いそが》しくて無理だが、もし余裕《よゆう》ができたら、ちょっと相談に行ってもいいかもしれない。そう思えば、驚くくらいストンと心が軽くなった。 「ありがとうリオウくん。そうさせてもらうわ」 「別に……邪魔《じやま》して悪かったな」  リオウは顔を背《そむ》け、窓から出て行った。       ・器・翁・ 「珠翠〜〜! 、ノ・、ノ………………」  劉輝はその晩、仕事を終えて後宮に入ると、まっさきに筆頭女官をさがした。  そのあまりに情けない声にもめげず、珠翠は慌《あわ》てて出て行くと優《やさ》しく慰《なぐさ》めた。 「りゆ、劉輝様……またなんというお顔をなきっているのです。メソメソしてはいけません」   LLl・おう 「刺繍をしよう」  珠翠ほギクッとした。この世でいちばん嫌《いや》なものを聞いた、とでもいうような顔だ。 「刺繍。余は刺繍をして気を晴らすことにした。付き合ってくれ」 「……なんでまた私のいちばん苦手なものを選ぶのです。というか、殿方《と叫がた》が気を晴らすのに刺繍というのはどうなんですか。カッコ良く剣《!?∵ん》で発散なきったらいかがです」 「ふん……余の顔が良くたって、それがなんだ! カッコ良くたって大好きな臣下にも大好きな娘《むすめ》さんにもふられまくりだぞ。ちっともいいことなんかない。頗だけよくてもダメなのだ。だからこれからはカッコ良くないほうも試《ため》すことにする!」 「はいはい、相変わらず当たっているようないないような、それでいて微妙《げみょう》にトンチソカソなヤケを起こさないでください。心配せずとも今の駄々《だだ》こね主上はとてもカッコよいとは申せませんから、別に刺繍なんかしなくったって充分《じ抽うぶん》−」 「刺繍」 「……わかりました。お付き合いいたします」  くっと珠翠は美しい顔を背けた。へソな小技《こわぎ》を教えてしまった私が馬鹿《ばか》だった。 「剣だと珠翠と話ができないだろう。見てるだけだとつまらぬだろうし」 「そ、そんなことは〜」  珠翠は冷や汗《あ▼せ》を流して作り笑いを浮《う》かべた。見てるだけどころか、相手もできますなんて口が裂《き》けても言えない。むしろ刺繍をするくらいなら剣の相手を務めるはうがよっぽどましだ。  二人分の刺繍の支度《したJヽ》をすると、向かい合ってちくちく針を刺《さ》す。妙《みよう》に劉輝が手慣れていることに、珠翠は結構本気で嫉妬《しっと》している。なんでかこれっばかしほいつまでも上達しない。 「そういえば御史台と兵部から離宮《りき博う》の使用許可がきていたが、どうなってる?」 「あらかた準備は整え終わりました。場所は桃仙宮《とうせんぐう》です。一目二日ほどで十二姫と秀麗様をお迎《むか》えすると思います。それに合わせて私も主上のお傍《そぼ》からそちらへ参ります」 「……うむ。よろしく……何があっても余はくるなといわれているから……」 「嬉しくないのですか」 「だってな珠翠! 十三姫と秀麗が後宮へくるんだぞ。嬉しいんだか嬉しくないんだかさっぱりわからんではないか。どう反応していいのかまるでわからん」ものすごく正直な感想を劉輝は述べた。  珠翠もその通りだと思った。 「主上は、十三姫をご存じなのですか? どんな姫君なのでしょうか」 「それがわからんのだ。藍家はちょっと特殊《とくし騰》でな。本家腹の五人以外、生まれた異母兄弟は、それぞれ色々な育てられ方をしていると聞いている」 「色々な育てられ方?」 「そう。藍門一族に預けて育てることもあれば、農民や商人の暮らしをさせる子供もいる。武門の家に預けることもあれば、隠者《いんじや》のもとで学問を磨《みが》かせたり、有名な舞姫《まいひめ》に弟子《でし》入りさせる姫もいると聞く。母君の血も多少は考慮《●てツhリよ▼》されるようだが、結構適当に選んであっちこっちで色々育てているらしい。生まれた子供の未来は運任せというやつだな」 「……あのポウフラ将軍の適当さ加減の源がわかった気がします。�それにしても、あらゆる職種、あらゆる身分でいついかなるときでも使える者を育てる、というその徹底《てつてい》した一族主義はさすが藍家というべきか……」 「ああ。で、どこにどんな異母兄弟を送ったかは極秘《ごくひ》にされている。その徹底した秘密主義のせいで、十三姫がどこでどう育てられたのかもわからん、というわけなのだ」わかっているのは、あの藍家の三つ子当主が、あらゆる人材の中から十三姫という娘を送って寄こした、という事実だけだ。考えるだけで冷や冷やものだ。 (まあさすがに珠翠にはかなわんだろうが)  ふと劉輝は顔を上げ、珠翠の横顔を見つめた。近寄りがたいまでに美しく完璧《かん.へき》な女官だが、誰もいない時を見計らい、こっそり劉輝の刺繍と自分の刺繍をいつまでもいつまでもいつまで  も見比べ、何やら考え込んでいるという可愛《かわい》い一面もある。そして何より優しい。 「……珠翠、近々嫁《よめ》に行く予定とか、ないな? あっても余が邪魔していいか? いやする」 「なんですか、いきなり」 「これで珠翠までいなくなられたら、余は真面目《まじめ》に泣いてしまうからな」  珠翠はふと手を止めた。劉輝はプチプチと珠翠より遥《はる》かに器用に針を刺していく。  冗談《じようだん》なようで本気だということを、珠翠はわかっていた。  少しずつ何かが欠けていく。何かがこぼれていく。それは劉輝自身のせいでもあった。  楸瑛も絳攸も傍《モぱ》にいない。わかっていると言いながら、それは劉輝から壬としての自信を失わせる。先延ばしにしてきた現実を突《り》きつけられ、基盤《きげ人》の脆《もろ》さも露口王《ろてい》した。標《しるペ》にしていた灯火が消えて、真《ま》っ暗闇《くらやみ》を一人きりで歩くようにひどく不安になる。こんなにもあの二人に頼《たよ》っていたことを思い知らされる。そしてあの二人しかいなかったことも。  旺李の言う通り、二人がいさえすればいいと、他の臣の心を得る努力を欠いたのは劉輝自身。  すべて自分で招いた結果だと、劉輝が思っていることを珠翠は知っている。 「……主上」 「う、いや、別に一生嫁に行かないでくれとか、そういった無茶はいわないが。でも轍嘆も、知らない間に珠翠に嫁に行って欲しくないと思うし」 「は〜あのボウフラなら大喜びするに決まっているではございませんか。もう私にいちいち逢瀬を邪魔されなくてすむのですから。あんな男の話はどうでもいいんです。……主上」 「は、ほい」  ついにボウフラ男からただのボウフラになってしまった。劉輝は冷や汗をかいた。  珠翠はうつむいて、ジグザグの刺繍を見た。不ぞろいで下手くそな目。  この刺繍のように、いつも珠翠は肝心《かんじん》なとき、うまくやれない。 「おそばにいたいと思っております。できるだけ……できるだけ長く。それは本当です」 「……珠翠?」 「で、ですが……どうしてもおそばを離《はな》れなくてはならなくなる日がくるかもしれません」  嘘《うそ》をつく。 「かもしれない」ではなく、間違《まちが》いなく、その日はくる。  リオウの漆黒《しっこく》の膵が脳裏《けとみ.のうり》に蘇《よみがえ》り、珠翠の声は震《ふる》えた。それでも懸命《けんめい》に平静を装う。 「これだけは……信じてください。私はこうして過ごす時が大好きでした。主上も、秀麗様も……邵可様も、本当に大好きで……お傍にいさせていただくだけで幸せでした。たとえどのような別れ方をしても……それだけはお心の隅《寸み》にでもお留めいただければ……嬉しく存じますL劉輝は焦《あせ》った。こんなことを言われるとは思わなかった。 「な、なんだ。もしかして、本当に嫁に行くのか!?」 「…・そうですね。そう思っていただいて結構です」 「待て! 全然幸せそうじゃないぞ! 前に言っていた好きな男というやつではないな」 「いいえ。充分……幸せでした。充分です…・⊥珠翠は小声で、けれどはっきりと首を横に掛《トT》った。 「私は……たくさんのものから逃《▼−》げて、いつも誰かに守られてきました。逃げて逃げて〜いつかこんな日がくるのは、当然だったのかもしれません。私は、私に課せられたいくつもの義務も責任も果たさず、一人だけ勝手に、幸せだけを選んで、放り出してしまったから……」敬語が崩《一ヽず》れる。束の間、紗《しや》が剥《ほ》がれるように、少女のように頼《たよ》りなく寄る辺ない表情がのぞいた。劉輝はそのとき初めて、ただの珠翠としての、顔を見た気がした。  珠翠は我に返った。慌てて両手を振って笑《え》みを浮かべる。−余計なことを言いすぎた。 「あの、でも、大丈夫《だいじょうバ》です。まだしばらくは……しばらくは、おそばにいられると思いますから。さすがに今の主上を放ってはおけませんし」ほんの少しだけ、劉輝はホッとした。……時間があるなら、なんだかんだとごねて相手の男にいち・やモソつけて邪魔《じやよ》できるかもしれない。なんといっても劉輝は王なのだ。王様。  珠翠は正確にそんな王の心を読み取り、困ったように苦笑いした。けれどそれだけだった。  土の心が、とても嬉《−ソ——l》しかったから、何も言わないことにした。  ……そのあと、珠翠は適当な理由をつけて、室《へや》から出た。  気を抜《ぬ》いた瞬間、《しゆんかん》全身からいちどきに汗が噴《ふ》き出した。死角になる隅へ行き、太い円柱にもたれかかる。それでも立っていられずにずるずるとしゃがみこむ。目の前がまだらに染まり、点滅《てんめつ》する。心臓がどくどくと耳の近くで音を立てる。  頭の中で、珠翠のものではない声が鳴り響《ひげ》く。それはもうずっと聞こえなかった声。   −役目ヲ果タセ……命《めい》二従工一……  その声を振り払《はら》うように必死で頭を振る。珠翠という人格も意志も何もかもがズタズタに引き裂かれて、大波にさらわれそうになる。 「…だめ…………まだ、おそばを離れないと……約束……」  見つかった時から覚悟《かくご》はしていた。でも、だめだ。まだ、だめ。嫌だ、いやだ。  ー忘れたくない。まだそばにいたい。できるだけ長く。長く……。あの|寂《さび》しがり屋の士の傍に、たくさん文《ふみ》をくださる秀戯様のお傍に、……愛する邵可《けと》のそばにいたい。  目の端《はし》に涙が《なみだ》にじんだ。どうか壊《こ有》さないで。 「私」を、壊さないでー……。  ぐったり倒《たお》れる珠翠を、王に謝りに行く途中《しこち紬う》だったリオウが抱《だ》き起こした。 「……よくここまで抵抗《ていこ、リ》できるな。たいしたもんだ」  リオウ自身も半ば驚《おごろ》いていた。珠翠という女官に会え、とは言われたが、まさかこうなるとは思っていなかった。どうやらリオウの目が暗示の発動媒体《げいたい》にされていたらしい。 「…・宴はどこだ?送っていってやるくらいはしてやる」  リオウにはどうすることもできないし、こうなってしまえばもはや時間の問題だ。この並々ならぬ根性《こんじよう》と強固な意志に敬意を払って、抵抗するだけさせてやっても別に構うまい。 「いや……近寄らないで……」  頑是《がんぜ》無い子供のように首を振る。ほとんど意識が飛んでいるらしい。 (なんか俺すごい毛嫌《けぎら》いされてないか……)  仕方ないとはいえ、なんだかリオウは貧乏《げんぼう》くじをひいた気分だった。  それでもリオウは珠翠を見捨てずに、手近な室に運ぼうと抱き上げかけ−。 「……そのまま、置いていってもらおうか」  殺気に満ちた冷ややかな男の声が背後から突《つ》き刺さる。  ……気づかなかったぶん、リオウの分が悪い。リオウはさっさと珠翠から離れた。  すれ違《ちが》う時も、一分の隙《すき》もない。あの王といい−。 (……顔に似合わず、結構やるのが多いよな……)  リオウは男が珠翠をそっと抱き上げるのを目の端で捕《レし》らえながら、秀麗に言われたとおり王に謝りにいくために爪先《つまきさ》を変えた。 (……誰……)  珠翠はぼんやりと目をあけたが、目の前がかすんで、すべてがおぼろげだった。  やわらかな寝台《し′んだい》にそっと横たえられる。脂汗《あぷらあせ》でべったり張りつく前髪《圭えがみ》が気持ち悪い。それを察したかのように、誰かの指先が器用に動き、優《やさ》しく髪《かみ》をかきやってくれた。 (……郁可様……?)  もしかして吉葉に出したのかもしれない。磐を結《ゆ》う幾《もく》つもの髪紐や哲を《かみひもかんぎし》、慣れた仕草で抜いてくれていた手が、ふと止まった。 「……可さま?」  しゃべるな、とでもいうように優しく頭を撫《な》でてくれる。少し躊躇《ためら》いがちで、不器用な撫で方は、記憶《きおく》の遥か底に埋《う》もれていたものと同じ。  涙がこぼれた。 「…………行ってください」  邵可は珠翠などに構っていてはいけない。  秀麗様が危険でも、一度も動かなかった。郁可が少し動けば、解決することは山ほどある。  どれほど王の助けとなれることか。けれどそれをしないのは、本当に危機的状況に陥《じようきようおちい》った時、邵可が切り札にならなくなるからだ。愛娘《まなむすめ》でさえ、国と秤《はかり》にかけることができる氷の理性。   −先王が目をつけ、胃太師が認めた。邵可こそ、他に比類のない生粋《ヽ、つすい》の政治家。  ギリギリまで邵可は動かない。動いてはいけない。気取られてはいけない。そうでなくとも、邵可が守らなくてはならないものはとてもとてもたくさんあるのだから。 「お願い……行ってください…………」  せめて足手まといにだけはなりたくない。自分のことは自分で何とかすると決めたのだ。  必死で保っていた意識がとぎれがちになる。疲《つか》れてー眠《ねむ》りたくなって、目をつむる。  抱きしめられた。子供をあやすように優しく、慰《なぐき》めるように、そっと。  たったそれだけで、鉛《なまり》のような疲労《ひろう》は心地《ここち》の良い気怠《けだる》さに変わる。珠翠は心からくつろいで、水に沈《しず》んでいくような眠りに誘《さそ》われるままに、最後の意識を手放した。       ・翁・翁・               ちやわん   ヽヽヽヽヽ  バキン、と茶碗が砕け散った。  別に落としたわけでもない。ただ机案《つくえ》の上に置いてあっただけの茶碗が、唐突《とうとつ》に弾《はじ》け飛んだのである。悠舜は振り返ってしばらくそれを眺《なが》めー溜息《ためいき》をついた。  別段この怪異《カしし》に驚くこともなく、流れた茶も、茶器のカケラも自分で片付ける。すべて層籠《ノ・ずかご》に捨てた頃《ころ》、ひょっこりと酒を担《かつ》いだ同期がやってきた。 「おう悠舜、邪魔するぜ」 「……相変わらずどこの破落戸《ごろ 「き》かという入室をしますね、飛翔《けしよう》……」  悠舜ほ同期の管《か人》尚書に、やれやれと溜息をついた。 「どうしました?まさかお酒を呑《の》みにきたわけじゃないでしょうね」 「よくわかったな、さすが悠舜。尚《こ》書令《こ》室なら、ぐだぐだ文句言われずに呑《の》めるからな」  そ.うして肩《かた》に引っかけていた酒瓶《さかげん》と酒杯《しゆuい》を二つ、手妻のように出して酒を注ぐ。  一杯《いつはい》だけといいつつ、飛翔はあっというまに手酌《てじやく》で三拝くらいあおった。とはいえ、飛翔が酒を呑みにきたわけではないことを知っていたから、悠舜もちびちび付き合った。  ややあって、飛翔はバリバリと頭をかいた。 「……悠舜。オレは別に何ももってねぇからな。何があろうが、オレはお前の傍にいてやる」 「ありがとう、飛翔。……でも、ですか?」 「陽玉《ようぎよく》はカソペソしてやってくれ。あいつめちゃくちゃ我が家大好き野郎《やろう》だからな。碧家《へきけ》から打診《だしん》がきたら、多分逆らえねtと思うわ。大事なモソが違《ちが》うのは、しヤーねぇさ。無理に引き留めるつもりもねぇ。つtかオレが引き留めたってあいつが残るとはてんで思えねーけどよ」悠舜は微笑《ははえ》んだ。……十年以上前に、一緒《いつしよ》に及第《さ.仲うだい》した同期。  それぞれがそれぞれの大切なものを選んで、別々の道を歩んで、ここまできた。 「わかってます。……ふふ、好きなものはお酒だけではなくなったようですね、飛翔?」 「うっせぇ。大体な、オレたちはお前がいっちばん心配なんだよ!」 「……た《ヽ》ち《ヽ》」 「うっ。うるせt。お前な、せめて地固めするまでもう少し士から距離《毒−ト堕り》おいとけや! ニッコニコ人畜《じんち一1》無害そうな顔して、立て続けにズバズバ貴族派斬《ヽ−》りやがって。お前なら凌蜃樹みてぇに中立でも充分《じゆうぷ人》やってけるだろ。あんまり王をかばいすぎるとお前が死ぬぞ」 「結構。もとより半端《はんぼ》な覚悟で朝廷《こ二》に戻《もご》ってきたわけではありません」かつて悠舜が茶州行きになった経緯《けし、い》を思いだし、飛翔はぐっと唇を噛《J、ちげるか》んだ。  悠舜は脳裏《のうり》に全省庁の大官の顔ぶれを思い描いた。 「飛翔……今の人員構成の元になっている、先王陛下と零大師が各省それぞれに配置した人選は絶妙《ぜつみよう》でした。国試派も貴族派も、それぞれが容易には動けない人選−」王の最も親密な秘書役として、多くの議案を共に考え、書翰《しよかん》作成をする中吉省の要職は、人  員不足を名目に未《いま》だほとんど空位。王自ら書翰作成することで補ってきた。  貴族派の多くは、門下省へ配置。王の意見も退けられる大権を持たせる。  逆に尚書省には多く国試派の実力者を配置。これによって、たとえ門下省で反対された案件でも、実際に法令を施行《しこ・ソ》する尚書たちの最終権限をもって押し切ることが可能になった。ゆえに女人《によにん》国誠も、茶州の事案も、門下省の反対を押し切って最後は施行できた。  これでは貴族派が不利に見えるが、御史台に貴族派の若手・葵皇毅を配置することで相殺《そうさい》。  つまりは現在、貴族派、固試派ともに勢力図は五分と五分。  けれど、それも長くはつづかない。あくまで一時凌《し.ちじしの》ぎの策だ。多分、抑《おき》えがきく数年の内に脇《わさ》を固められるだろうと、先王と胃太師は考えていたのだろうが一。 (……即位したての新王に、ご自分たちの能力を基準に考えないで頂きたいものですね……)  さすがの悠舜も硯《丁ずり》を投げつけたくなる。今度宵太師にあったら本当に投げつけてやろう。 「まったく、飛翔、あなたたちもいけないのですよ。少しも王に優しくしてあげないから」 「だうてよぉ、最初の印象が悪すぎたんだよ。引きこもり、両刀、朝議にゃ出ねぇわハソコはてきとーに押すわの無気カバカ王っぶり。お前だって即位式《そくいしさ》で怒《おこ》ってたろが」 「即位式は、でしょう。頑張《がんぼ》りはじめたな、と思ったところで少し歩み寄りを見せたらどうなのです。誰も彼も土に求める一線が高すぎます。二十一歳なのですよ。じうと待つより 「オレが育てる』くらいの気概《きがい》はないのですか。あなたの大好きなお酒だって、勝手に熟成しているのではないんですよ。手間暇《けま》かけて気にかけておいしくなるんです」 「えー……両刀王にソなことしてオレが喰《ノ.、》われちゃったらビーすんだよ……」 「−飛翔。言っていいことと悪いことがありますよ」  声音は穏やかながら、カツ、と杯を置く鋭い音に、飛翔がバツが悪そうに耳をほじった。 「……わり。確かにちょっとはっぱりすぎたかも。次から次へと若手二人と馬鹿《ぱか》なこと言ってきやがるんで、ふざけんなよこんガキャ、つて怒り半分呆《あき》れ半分で、ついな!…⊥ 「では面と向かって怒鳴《ごな》ってあげればよかったのです。そうすれば王も、経倣殿も藍将軍も、ちゃんと反省して考えます。若すぎて浅慮《せんりよ》になるのも、ついつい焦《あセ》って最後はごり押しに走るのも仕方がありません。失敗して迷って学習して成長するのが当然です。それを有能だからと任せっきりにして−若いからこそ誰か年寄りが後ろについていないと、小生意気な若造が、でなめられるのは世の常でしょう。霄太師はもう実務についておりませんし�」 「待てやコラ。誰が年寄りだ!」 「尚書みんなです。何か文句でもあるのですか」笑顔で斬り捨てられ、飛翔は酒を呑むフリをして黙《だよ》った。……すげぇ怒っている。  もともと悠舜はめちゃめちゃアツイ男だということを忘れていた。悠舜にかかれば黎深でさえ頭を下げて謝り、十年前には怒り心頭で茶州に自主左遷《させん》したくらいのアツい男だ。 「せめて尚書たちが王側にいるとはっきりわかる立ち位置まできていれば、経倣殿にも藍将軍にも思う存分誰もが通る青春の悩《なや》みを満喫《まんきつ》させてあげられたのです。なのにー」絳攸も楸瑛も若すぎたし、紅藍両家に守られて、自分が背負うものをあまり深く考えなかっ  た。まず獲得《わくとく》すべきだった尚書たちはそろいもそろってくせ者揃《ぞろ》いで、王に協力するというよりは遠目から王が何を為《な》すのか、距離を置いて見続けるという立ち位置をとりつづけた。  結果、�花″二人がいなくなっただけで、土は傍目《はため》に孤立無援《こりつむえん》になってしまった。  はたと、飛翔は理解した。そうかー。 (だから悠舜はあんなめちゃくちゃ王をかばいまくりな行動をやってたのか……)  中立なんかでお茶を濁《にご》せば、ますます王の孤立が目立つだけだ。飛翔は心の底から反省した。 「悪かった。今度からはあの小僧《こぞ・つ》が三十年ものの熟成酒だと思うことにするぜ」                                                    ユ 「さん……まあ、あんまり寝《.一4》かせすぎないように見ていてくださいね……」 「でもよ、悠舜。この二年、あの小僧は俺たち尚書になんも言わなかった。それも事実だぜ」  悠舜は目を閉じた。……突然《と 「.ぜ人》王位につかざるをえなくなった末の公子。……言えなかったのだ。有能な尚書たちに、認めるに足る王かと、胸を張って問うことが。  勿論《もちろん》、そんなことは理由にならない。何も行動をしなかったという結果がすべてだ。他の兄公子が消え、彼が世継《よっ》ぎと目されてから先王崩御《はうぎよ》まで数年という準備期間もあったのだ。  そのツケは払《はら》わなくてはならない。けれど、最初から完璧《かんぺさ》な王などいない。 「…・機会を下さい、飛翔。まだ遅《おそ》くはないはずです。それに時間は多分、あまりありません」ギクリと、飛翔は顔を上げた。 「……勝算は、あるのか〜」 「今のところは何とも。色々次善の策を用意しておきますから、万一の時はあとよろしく」 「バカ野郎。奥方はどうすんだよ」 「話し合い済みです。もしもの時は一緒に死んでくれるそうですので、ご心配なく」  悠舜は眉根《ま紬ね》を寄せた。……そう、この数年のツケは重い。尚書たちの大半も王を認めていない。繚家や門下省だけではない。黎深をはじめ、尚書たちとも相対しなくてはならない。  ことによっては、敵対することも覚悟《かくご》しなくてほならなかった。 (侍に黎深−)  簡単に仕事をほっぼりだし、締仮に押しっけて、王から引き離《〓な》したあの友人と、いずれは。       ・器・器・  後宮で割り当てられる離宮《りき博う》の下調べから楸瑛が帰ってきたと聞き、十三姫は室に赴《おもむ》いた。 「見様、入るわよ」 「んっ・ああ……」  十三姫は、楸瑛が掌《てのひら》の中で弄《もてあそ》んでいる扇を《おうぎ》見て、首を傾《カし》げた。 「…・玉華義姉《ぎlょくかねえ》様のものっぽくない扇だわね」 「違《らが》う女性のだからね」  十三姫は目を丸くした。まじまじと兄を眺《なが》める。……これは予想外だった。 「……あ。あらそぉなの」 「なんで声が裏返ってるんだ。別に恋人《こいげ・と》でも何でもないぞ。相手は心底別の男にぞっこんで、私なんか頭の天辺から足の爪先《つまきき》まで眼中外だ。今日なんて間違われたよ」 「…………………………………………見様」 「なんだ」  十三姫は頭を抱《カ・舟》えた。……だめだ、もう何を言う気もない。いってもきっとわからない。 「……なんでもない。てことはその女性は後宮の女官かなにかっ・」  あたり。筆頭女官だ。君も多分離宮でお世話になるよ」 「了解。《りょうかい》で、離宮の様子はどうだった? 警衛の様子とか。イイ感じ? L楸瑛は眉根を寄せた。なんといったものか考えー結局いうのーをやめも。 「離宮は締虎《ヽ−一lい》に整えられていたけどね……まあ行けばわかるよ。百聞は一見にしかずだ」 「は一ん」  それだけで十三姫はおおよそを察した。 「藍邸《うら》で守るほうが楽だが、これ幸いと御史台に我が物顔で出入りされても面倒《め人ごう》だ。こんなときでもないと藍邸《う・←り》には乗り込めないからな。秀麗殿だけなら別に構わないが、嬉々《乍lヽ−》としてオマケがついてくるだろうし。それに朝廷に預ければ何かあったとき御史台の昔任にできる」 「藍家の男っぽくてカツコいいわ、見様。私と秀麗さん守る気サラサラないわね」 「二人とも私が守らなくても勝手に頑張るだろう。おかげで楽に動けて助かるよ」 「つたくサイテーだわね。わかったわよ。なんとかするわよ」 「藍家の男だからね。……他の何者にもなれないよ」  十三姫は慰《なぐさ》めるように楸瑛を後ろから抱《だ》きしめた。 「あんまり無理しないのよ。妹の前でカッコつけるだけ損よ。……まだ時間はあるわ」  楸瑛は小さく笑った。ズバズバものをいう妹だが、決してそれだけではない。妙《みよう》なことだが、この妹がきてくれてよかったと思う。一人きりで考えているときより確かに楽になった。同時に再確認《さいかくにん》もする。この甘くない優《やき》しさは、やはり秀巌殿と似ているー。 「…・あいつが死んで、五年か……」 「史上最低の馬鹿野郎《ばかやろう》だったわね」 「そう・か。私はあいつほど最高のl男を知らないよ。……何もかも、最高の親友だった」 「……過去形で言わないで」  今度は楸瑛が妹を抱きしめる番だった。 「……士二姫、次に私が会いに行くときが、最後だと、土にお伝えしてくれ」  十三姫は顔を上げ、黙って兄を見つめた。……彼女の言うべきことは一つしかなかった。 「……わかったわ」 「それと……」  楸瑛は掌の扇を見つめ、もう一つの頼《たの》みごとをした。  悶間宮責∵・甘秀麗∴T三姫と含−プその日、清雅から連絡《さlんらく》を受けた秀麗は、蘇芳と一緒《いつしよ》に本当に久々に後宮へと赴いた。  後宮へつづく門で待っていた二人に、秀麗は目を丸くした。同時に清雅の言葉が蘇《ょみがえ》った。 『行けばわかる』 「�珠翠、静蘭……!」  確かに口が堅《かた》く、事情を知り、いちいち勘繰《かんぐ》らなくても誰より信頼《しんらい》できる二人だ。 (……ほんと、どこまで知ってんのかしらあの男)  いや、どうしてそこまで知る必要があるのか、ということを考えた方がいいのかもしれない。  珠翠がば歩進み出て、微笑《一は二はえ》んだ。 「秀麗様……お久しゅうございます」 「珠翠! 元気だっ……」  小走りに駆《か》け寄り、間近で珠翠を見た秀層は、目を丸くした。胡蝶に優《まさ》るとも劣《おと》らぬ美貌《げぼう》の筆頭女官なのは変わりないが�。化粧で隠《けしよう・ふりく》してもわかる。 「……どうしたの。少し、やつれたわ……」 「いえ……最近少し眠《わむ》れずにいるだけです。ご心配なさらないでくださいませ」  珠翠は慌《あわ》てて取り繕《つくろ》った。それは嘘《うそ》ではなかった。本当に、このごろ酷《ひど》く寝覚《ねぎ》めが悪い。 「大丈夫《だいじようぶ》ですから」 「なら……いいけれど。あとで何かくつろげるお香《−」tつ》とか、取り寄せようね。−静蘭」 「はい。お待ちしておりましたお嬢様、《じょうさま》タンタン君。御史台から話は伺《うかが》っております」  秀麗はぎっと後宮の見取り図を頭に思い描《えが》いた。人の少ない離れ−。 「もしかして、桃仙宮っl・」 「そうです。十三姫はもうついておられます」  秀麗はまたドキッとした。さて、劉輝のお妃《きき事1−》候補はどんなお姫様なのだろう。  静蘭は椒瑛の邸《やしさ》で会ったときを思いだし、これまた少し複雑だった。 (……さすが藍家。目の付けどころは確かにいい。が……劉輝の手に負えるだろうか)   −桃仙宮は後宮でも本当に外れにある。桃林を抜《ぬ》けた先の、鏡のような桃遊池《とう博うち》の傍《そば》に閑々《かんかん》と仔《たたで》む小さな離宮だ。池に張り出している四阿《あずまや》は桃仙亭と呼ばれ、春には桃林から飛んでくる桃の花びらが池に散る様が見られる、隠れた名所でもある。  以前は寂《さげ》れないように最小限に手入れをしているだけだったが、さすがに内密とはいえ、十三姫の隠れ家になるということで、侍官や女官がばらばらと見受けられた。  ふと、桃仙宮から一人の少女が凄《す一−》い勢いで出てきた。  くるっと桃仙宮全体を掛《・r》り返り、仁王《におう》立ちで腰《こし》に手を当て、上から下まで左から右まで眺め  回す。かと思いきや、今度は突然頭を抱えてガックリその場にしゃがみこんだ。 「……わーお……ほんっと………………だらけだわ」 「……何だらけなんですか」  秀麗はその一屑《かた》をトソトンと叩《たた》いて訊《き》いてみた。そして既視感《きしかん》を覚える。確か数日前にもこんなことがあったようなー。それに、この声。 (あ、ひったくりの追い紺《��》ぎをしてた女のコに似て−) 「えっH・そりゃもちろんあ�あら」  くるっと振り返った少女は、秀麗を見て目を丸くした。初対面の反応ではない。  秀麗はまさか、と思った。まさか彼女があの時の少女で、さらにまさか劉輝のー? 「あ、あの……ひったくりを追い刺−じゃない、追っかけてくれた−?」  十三姫は立ち上がり、にっこりと笑った。 「当たり。初めまして、じゃないわね。ひったくられた女性に忠告してくれた〜」       ・器・器・  蘇芳は静蘭と一緒に秀麗の仕事用に割り当てられた室に書翰《しよかん》を置きに行った。  秀麗は別室で十三姫と 「お着替《さが》え」をしている。 「タンタン君、なんだか浮《tつ》かない顔ですね」 「そぉ?」 「ええ」  蘇芳は耳の後ろをかいた。だが、訊いておけるときに訊くのもいいかもしれない。 「……あんたさ1、お姫様と一緒に茶州にもついてったんだよな」 「ええ」 「浪《ろ・つ》燕育って、どんなヤツ?」  静蘭は目を丸くした。 「なんですか薮《やぷ》から棒に」 「……や、あの女の輔佐《ほさ》してたってきーたから」  静蘭は納得《左つし⊥く》した。……なるほど。 「……燕音並みにお嬢様の輔佐をするのはかなり難しいですよ。喧嘩《Hんか》の腕《うで》は羽林軍大将軍並みですし、大雑把《おおぎつぱ》でどんぶり勘定《かんじよう》で適当なくせに視野が広いので、勝負所を外すことはまずありません。一か八《ばち》かの策は打たず、状況《じようきよう》に応じて臨機応変に対処できる能力が高いので、窮地《さ軸うら》に強い。馬鹿《ぼか》そうに見えて本当に馬鹿ですが、『何かおかしいLを確実に見抜《みぬ》くので、下手な策士じゃてんで相手になりません。お嬢様の望むことなら、不可能でも可能にする男ですよ」蘇芳は呆気《あつ!?》にとられた。この家人がお嬢様以外でここまで欝《ま》めるのを初めて聞いた。 「……へt、まさかあんたに友達がいたとは思わなかった」 「友達? あいつが? ぜんっぜん違《ちが》いますよ」 「なんだ。やっぱりな。あんた友達いなそーだもんな——」  自分で言ったのにも拘らず、蘇芳に即行《そつこう》で納得された静蘭はひるんだ。 (友達いなそうだと?)  しかしよくよく考えてみれば、……そうかもしれないと静蘭は思った。なんということだ。 「あんたちょっとセーガに似てるもん。すんげぇ自尊心高くて、自分が一番になることが当然で、誰とも距離《ヽゝよhリ》置いて、周りはみんな敵ばっかーみたいな。お嬢様がいなかったら、だけど」  まさに公子時代の自分を言い当てられた。 「そのーあんたが珍《めず・り》しく褒めるから、友達かと思っただけ」 「………………ち、違います」  静蘭は最後の意地を張った。燕青を友人などと認めるのはなんかものすごく癖《しやノ1》だ。たとえこの場にいなくても、言葉にした時点で何かが負ける気がする。 「…・やうば俺なんかとは器《ら∴∵わ》から違うわけねー……」 「タンタソ君、役に立ちたいんですか」 「うーん……つかあまりにも役に立たなさすぎだなうてさ。俺いる意味ないし、マジで」 「そんなことありませんよ。お嬢様はタンタン君に充分《じゆうぶ人》助けられてますよ」  静蘭は慰《なぐさ》めでなく本音で言った。蘇芳の 「普通《・hつう》」の言葉は、秀麗に立ち止まって 「現実」を見つめさせ、細い細い道を勢いだけで走らないように歯止めをかける。一人で何ができて何ができないかを考えさせ、秀麗個人の地力を底上げさせてくれている。確かに燕青の助けを借り  れば何でもできるかもしれないが、燕青なしでもできる個人の力を上げている段階なのだ。  しかし当の蘇芳は無意識なので、まったく役に立ってないと思っているらしい。 「でもそれってさt、俺じゃなくてもいいと思うわけ。こないだのはマジでまぐれだし。下につくにしても、もっと役に立つヤツ絶対いるし。俺みたいなもともとの出来があんまよくないのって、結局頭いーやつの足引っ張ることくらいしかできないんだよなー」  甘いところは助けるとは言ったが、実際秀麗の適応力は相当高く、一度清雅にやられてからはあまり隙《す、−》を見せなくなった。相変わらず甘いのは確かだが、その上で清雅と真っ向から闘《たたか》えている。自然と注意深くなり、人の言動の喪を読むのも長《た》けてきている。結果的に清雅という容赦《Jうしや》のない男の存在は、秀麗の能力を短期間で上げているのだ。  比べて蘇芳はどうーか。何もできてない。傍にいるのは無意味じゃないかと思う。  一万、日分のことより他人のことがよくわかる静蘭は、果たしてどういったものか迷った。  下につく者みんながみんな、別に燕青並みに上司の役に立つ必要などない。不可能だし、上司もそこまで期待しない。与《あた》えられた仕事がある程度こなせればそれでいい。上を目指すなら別だが、蘇芳は別に出世したいわけではなさそうだ。  秀麿の傍にいて影響《えいきよう》を受けたのかもしれない。1成長したがっているのだ。と思いきや。 「そろそろ田舎《いなか》にいって畑仕事しょーかなー」  ……違《ちが》ったらしい。どうも蘇芳は読めそうで読めない。これは蘇芳の隠れた長所だ。静蘭にも読めないということは、おおかたの人間の予想外を無意識につくはずだ。 「タソタン君。あきらめ早すぎませんか」 「俺の特技だもん」 「君の特技は他《ほか》にもありますよ。タンタン君、『自分じゃないとできないことしなんて滅多《めった》にありませんよ。誰かにできることは大概《たいがし.》他の誰かにもできます。『この人じゃないと』というのは、実績と信頼《しんらい》を重ねるからこそそう思われるだけです。お嬢様にとっての私や燕青も同じことですし、タンクソ君もそうです」 「俺?」 「ええ。たとえば清雅くんと君のどちらかを輔佐に選べといわれたら、お嬢様は間違《まらが》いなく君を選びます。清雅くんの能力が高かろうが、お嬢様を助けた実績と信頼が優《まき》っているからです。そういうことですよ。いま官吏でお嬢様の傍にいられる立場としては君が一番です」  蘇芳はちょっと仰向《あおむ》くと、何かを考えるように頭をかいた。  このときの静蘭の何気ない言葉が、のちの蘇芳の選択《せ人たく》に多少なりと影響を与えることになるとは、このときの静蘭は気づきもしなかった。 「…・ふーん。わかった。でもあんたもお嬢様に張りつかなくなったよな」 「それも信頼と実績ですね。私がいなくても、なんだかんだとお嬢様は切り抜けてますから。いつも傍にいなくても、私も安心できるようになったんです。官吏の時は、ですけど」  それは不思議な感覚だった。秀麗が自分の手を必要としなくなったら、自分はどうなるのだろうとずっと恐《おそ》れていたのに。真実は逆だった。心がふっと楽になった。前はいつもどこか不  安だった。この二つとない脆《もろ》い硝子《がらす》細工は、自分が守らなくては壊《こわ》れてしまうと思いこんで。  けれど本当は超絶頑丈《ちようぜつがんじよう》だった。何をしても壊れないなら、静蘭は絶対に大切なものを失わずにすむ。絶対に。それは−本当に静蘭を楽にさせた。今の静蘭は心から秀麗を信じている。  それが、燕青が何度も繰《く》り返した『秀麗を信頼しろ』という言葉の意味だったのだろう。 (なんであいつのほうがよくわかってるんだ。むかつく……) 「お嬢様離《じようさよげな》れができたってことね」 「……なんで逆じゃないんですか」 「だって一緒《い▼つしよ》にいるときあんたのほうが嬉《∴ノーl》しそーだし。本当はちょっと寂《きげ》Ltんだろ」 「……コホン。でも今はもっと心配な人が一人いますからね。お嬢様?」 「まったくだわ」  声をたどり、振《ふ》り返った蘇芳は落雷《・∵1∴∵い》のごとき激しい衝撃《しようげき》を受けた。こ、これは−。 「……・………胸が大きくなってね?」  即刻《そつこく》静蘭の拳が《こバし》蘇芳の脳天を見舞《みま》った。ぼそぼそと囁《さレJや》く。 「たとえそれが真実でも、いくらでも見て見ぬふりができるでしょう、クソタン君? 緯度《きれい》になったとか、充分お姫様《けlめさま》に見えるとか、陣毛《まlつげ》が長くなったとか! もっと別の逃《に》げ道が‖‥」秀麗はぶるぶる震《ふる》えた。静蘭はタンタソと話すと本当に本音が出まくりだ。 「……静蘭、聞こえてるわよ……。だってしょ——がないでしょ!?囲《おレ二り》なんだから!」  静蘭はハッと口許《くち ツと》を押さえた。しまった。 「いえ別に悪いとはひと言も!」 「そーだよ。全然悪くないって。たとえニセモノでも男は大きいほうが嬉《うれ》Ltもんだよ」  ドカッと静蘭は蘇芳を蹴《け》り飛ばした。 「相変わらずひと言多いですね若は。小ぶりで何が悪いんです。お嬢様のせいじやないでしょう。いい加減にしないと陽《ひ》の目を拝めなくしますよ? お墓にはタケノコを供えてあげます」 「やめろよ竹が生えてくるじゃん! あれってあっというまにノコノコ増えて辺りの土壌《どじよう》栄養分めちゃくちゃ吸いとって近隣《さ人り人》の村人超大迷惑《ちようだいめい——く》すんだぜ。死んでからも嫌《いや》がらせすんなよ」 「ふっ……私らしいお供え物だと思いませんか」 「うう……なんてやつだ。最低だと思わないのかあんたんとこの家人!?」 「−どっちも最低よ」カッと怒《いか》りの眼光で阻《こ・.》まれ、静蘭と蘇芳は口を喋《つぐ》んで目を逸《そ》らした。 「そーよ。最低だわね。胸なんてねt、邪魔《じやま》だし重いし歳取ればたれてくるのよ」  ひょこっとうしろから十三姫が顔を出す。こちらは珠翠より身分の低い女官姿だ。  秀麗より遥《ほる》かに直球なお姫様に、静蘭も蘇芳も頬《はお》を引きつらせた。秀麗は慌《あわ》ててたしなめた。  どうやら着替《きが》えの時にすでに秀麗はこの物言いに接し、あれこれ注意したらしい。 「十三姫! 後宮勤めの名家の子女らしく! それでばれちゃったらどうするんです!」 「はーい。ごめんなさい」  十三姫はひったくりの時と同じように素直《すなお》に謝った。そしてふと静蘭を見上げた。 「……ちょっとお伺《うかが》いしたいんだけど、ここの警衛は誰が?」 「今回は兵部と十六衛が担当してくれているはずですが」 「あなた、関わる予定は?」 「いいえ。私も他に仕事がありますから。全体の警衛は任せて、たまに顔を出す程度です。……何か気にかかることがあるなら、警衛を見直させますが」 「いえ、いいの。じゃ、このままで」 「は?」 「あとほあなたのお嬢様と話すことだから、これ以上は秘密一」  ……よくわからない姫だ、と静蘭は思った。  秀麗は秀麗で、自由に動ける蘇芳にあれこれしてほしいことを耳打ちした。 「−それとね、タンタン、ちょっと調べてほしいことがあるの」 「なに?」 「あの牢屋《ろうや》で会った隼て人のこと。何度か牢屋に放り込まれてるって。今までどこの牢城に捕《ろうじようつか》まったか、残らず調べて欲しいの。人目を引く容貌《ょうぼう》だから記憶《きおく》に残りやすいと思うし−」このとき、もし『人目を引く容貌』を秀麗が細かく言っていて、そばにいた十三姫が聞いていたら、少しばかり話は違っていたかもしれなかった。  蘇芳が外朝に戻《がいらようもご》った後、十三姫は秀麗の袖《そで》をつんつんひっぼった。 「ね、秀戯ちゃん」 「……ちゃん?」 「えうと、ダメ?」 「いえ、なんか新鮮《し人せ人》で。なんでしょうか」 「そこの池で魚釣《きかなつ》りしてるから、お昼がきたら呼んでね。露台《ろだい》で釣ってるから」  秀麗も静蘭も珠翠も呆気《ムつH》にとられた。・‥…魚釣り? 「…・趣味《し時丸》、魚釣りですか?」 「ううん。趣味は遠乗り。今度一緒にやりましょうね。魚釣りは毒味用よ。ここって、毒味に利用できる金魚鉢《\,んゞ一よばら》とかないんだもの。それ釣ってくるから」  秀魔の顔が引き締《、.−》まった。そう、彼女は暗殺対象なのだ。−が。 (なんで本人がこんなあっけらかんと−) 「あの……あなた本当に藍家のお姫様ですよね?」 「そう。でも本家で育ったわけじゃないから。育った家が家でねt。まあ気にしないで」  気にする、と秀庫も静蘭も珠翠も心の中で激しく突《つ》っ込んだ。  藍家のお姫様は本当に池に張り出した露台へ歩きはじめた。秀麗はぎょっとした。 「十三姫! 釣り竿《ぎお》は!?」 「さっき探《さが》したけどなかったのよねt。明日にも静蘭さんにもってこさせておいてくれる?」 「だって釣り竿なしにどうやって釣るんです!」 「んー。糸と餌《えき》があればなんとかなるから大丈夫《だいじようぷ》」  釣りの達人−!?ますます彼女がどんなお姫様なのか、まったくもってわからなくなった二人だった。  本当にふらっと出て行ってしまった十三姫を、秀麗はかろうじて静蘭に追いかけさせた。 「せ、静蘭……明日にでも釣り竿、と、あと護衛に一緒に露台で魚釣ってきて……」 「わ、わかりました……」   −そして女官によってお昼が運ばれてくるころには、本当に十三姫は桃遊池で大小六匹《げさ》くらい魚をつりあげていた。静蘭はかつて我が家の一部だったこの池で、こんな魚が生息していたことをこのとき初めて知った。ちなみに静蘭の獲得率《かくとくりつ》はゼロだった。 「神経質だから魚が寄ってこないんじゃないのー」  ついつい十三姫は嫌《いや》みを言ってしまった。自分が意外と楸瑛に兄妹愛をもっていたことに気づいたのは、静蘭のお陰《かげ》と感謝するべきかもしれない。  もちろんいわれた静蘭は屈辱《くつ�しよく》を味わった。今度は絶対釣ってやる−。  そして女官が運んできた臍《ぜん》を、その釣った魚に毒味させてみると、何皿目かで白い腹を上にしてぶくぶく浮《う》いた。……本当に毒が入っていた。ぼそっと十三姫が呟《っぷや》いた。 「……やっぱりねー」  静蘭の目が冷たくなった。 「−警衛を見直しましょう」 「いいっつったじゃないの。こーゆーのは気をつけてればなんとかなるし、見直したって網《あみ》を抜《ぬ》けてくるもんなのよ。こっちが防備固めて、向こうもどんどんわかりにくい手口をくりだしてくるはうが危ないわ。運んでくる女官を問いつめたって何も知らないに決まってるし。私と秀贋ちゃんで気をつけるから、このままにしといてちょうだい」秀麗も領《うなず》いた。これは本当に気を引き締めないと�。 「静蘭、これから毎日食材もってきて。あと調味料も。食事は全部私がつくるわ。簡単な庖厨《だいごころ》あるけど、調味料にも何入ってるかわからないから」十三姫は本気で嬉しそうに手を叩《たた》いた。 「あら。龍蓮見様も虜《とりこ》にした噂《うわさ》の手料理が食べられるのね。やったわ」 「……でも今はこの魚を外で焼いて食べるしかないですけどね……塩なしで」  池で釣り上げたでかい魚は、秀麗の冷ややかな視線におのれの末期を悟《おJlトー》った。  そして夜は夜で、十三姫がひょっこり隣室《りんしっ》から枕《まくら》をもってやってきた。                                           ユ 「秀麗ちゃん。一緒に寝《 一’》ましょう」 「寝ていい?」ではなくすでに決定事項《じこlワ》の言葉である。秀麗も面食らいつつ受け入れた。だいぶ彼女にも慣れてきた。 「いいですよ。でもまだ仕事があるので、先に寝ててください」 「はーい」  十三姫はもぞもぞと秀麗の寝台《しんだい》にもぐりこんだ。  そしてチラリと天井《てんじよう》に視線を走らせる。ごそごそしているのが二人いる。 (は!…‥本当、穴だらけの警護よね!…‥楸瑛見様が呆《あき》れて口ごもるわけだわ。いくら油断を誘《きぶヽ》うったってねー)とりあえず寝たふりをしてみる。天井裏の人は動かない。  ややあって、秀麗が蝋燭《ろーフ≠=ヽ》を消した。仕事が終わったようだ。着替える気配のあと、十三姫が寝ていると思って、そろっと横にもぐりこんでくる。  疲《つか》れているのか、秀麗はすぐに眠《ねむ》り込んだ。  天井裏の二人の内、一人の気配が遠ざかる。どうやら、秀腰と十三姫が何時に眠るのかを調べにきたらしい。一人は、女二人で眠っているのを見て、仕掛《し・か》けてみる気になったらしい。  スッと気配が扉の向こうに移動する。  十三姫は迷った。一人ならぶちのめせる。が、初日でそんなことをすれば油断を誘えない。  自分たち二人の日課を調べる人間がいるのなら、仕掛けてくる日は決まっているはずだ。                         ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  それに、十三姫と楸瑛の狙いは雑魚ではない。 (あ《ヽ》い《ヽ》つ《ヽ》がいるかどうかだもの�)  十三姫は寝返《ねがえ》りを打ち、わざと大きなくしゃみをした。寝惚《ねぼ》けを装い、むくっと起きる。  扉口の気配は慌てたようにどこかへ消えた。十三姫はホッとした。 「十三姫……?風邪《かぜ》ひきますよ……」  こちらは本当に寝惚けている秀麗が、布団《ふとん》を引っ張り上げてくれた。 「はーい。ごめんなさい」  十三姫は小さく返事をして、ごそごそと秀麗の隣《となり》にまた潜《もぐ》り込んだのだった。       ・翁・器・  数日後−。  桃仙宮を訪ねてきた清雅が見たのは、池の畔《ほレlり》で魚を釣っている秀麗の姿であった。 「……何してんだお前」 「本日の毒味用の魚釣り。仕事の息抜《いさぬ》きも兼《■り》ねて」 「ああ」  清雅は思わず笑った。ご飯は静蘭の食材・秀麗の料理と隙《寸き》はないが、水瓶《みずがめ》の水まではそうはいかない。秀麗が毎度井戸《も、ご》まで汲《く》みに行くわけにもいかない。飲み水にも何度か毒が混入していることがわかってから、水も毎朝ちゃんと魚で毒味をさせていると報告に書いてあった。 「毎日死なないように頑張《がんば》ってるようだな」 「ふん。どうせ知ってるんでしょ」 「当然だろ」 「で、何の用なわけ。通常業務はちゃんとタンタンに届けてもらってるはずだけど」 「ちょっと確かめたいことがあるんでな。今日お前を借りるぞ。十二姫の格好をしてこい」  皮肉なことに、清雅がいちばんまっとうな轡《ょ》め言葉をいってくれた。  秀麗を上から下までしげしげ眺《なが》め、珍《めずら》しく悪気なく感嘆《かんたん》してくれた。 「……へえ、見違《みちが》えるもんじゃないか。結構驚《おごろ》いたぜ」 「どうもありがとう」  こないだの静蘭と蘇芳の 「感想」をまだ根にもっていた秀麗ほ、ちゃんと礼を言った。  清雅は臼を丸くした。 「なんだ。素直《寸なお》に礼を言われるとは思わなかったな」 「だって今までの褒め言葉の中であんたがいちばんマシだったんだもの」 「ああ」  清雅はチラッと秀麗の胸元《むなもと》を見たが、すぐ逸《そ》らした。 「お前の周りの男は女に対する最低限の礼儀《れいぎ》もなってないのか。確かにろくな男がいないな」 「そ、そんなことない……と思うわよ……うっかり本音がでちゃっただけ……で……多分」 「うっかり本音が出ただと? ますます最低だと思うが」 「だってあんただって今のがいいんでしょ?」 「は? 俺は元のはうがいいから別にどうとも思わない」 「え。なんで。なんでよ。あんたが慰《なぐき》めいうとは思えないから真実本音よね? 理由は〜」  本気で食いついてきた秀麗に、清雅は少々のけぞった。胸のことで色々あったらしい。 「好みの問題だろ。俺は見るからに女女したのは好きじゃないだけだ」 「くっ……なんでよりによって少数派代表が今のトコあんたなのよぅ」  ガックリと秀鹿は肩《かた》を落とした。不倶戴天《ふぐたいて人》の天敵にいわれると非常に複雑だ。 「悪かったな。で、本物の十三姫はどこだ? まだ会ってないんだが」 「あいにくあんたにゃ会いたくないんですってよ。残念だったわね」 「……警戒《けいかい》されてるらしいな」 「日頃《けごろ》の行いが悪いせいじやないの」  清雅はにやっと笑った。 「違《ちが》いない。まあいい。協力しろとはいわれてないからな。俺は俺のやり方でやるだけだ」  清雅は慣れた仕草で秀麗の手をとった。いつもの強引《ごういん》なところは一つもない。  秀麗はおののいた。 「……な、なんだかずいぶん紳士的《しんしてき》じゃないの」 「当然だろ。今のお前は十三姫なんだぜ。内偵《ないてい》と同じだ。覚悟決めろ。くだらない感情で万に一つも失敗するような真似《まね》は許さない。圏《おとり》として役に立たないなら、俺の権限で即刻《そつこく》おろす」  冷ややかな眼差《圭なぎ》しを受け、ぐっと秀麗は唇《くちぴる》を引き結んだ。……その通りだ。  貴妃《きひ》の時を思い返す。しばらく侍女《じじよ》の賃仕事もやっていないが、亡《な》き母が叩き込んでくれた作法だ。決して忘れない。 (……大丈夫《だいじようぷ》)  すべるように歩き出した秀席に、清雅は小さく会心の笑《え》みを浮かべた。  感情がもろに出るように見えて、その気になれば結構なんでもできる。 (見てくれも悪くない。これなら後宮の女官として内偵もできそうだな)  今までほ侍官で内偵をするか、女官を籠給《ろ・つ・lり/、》するかのどちらかだったが、確かに皇毅のもくろみ通り、いちばん面倒《め人ビう》な後宮でのゴタゴタをさぐるには最適かもしれない。 「まあ心配するな。十三姫には優《やき》しくしてやる」 「いざとなったら見捨てるつもり満々の人の言葉は耳半分で問いとくわ」 「賢明《けんめい》だな」  清雅はニヤッと笑ったのだった。       ・翁・歯・  十三姫は秀麗と清雅が一緒《いつしよ》に行くのをこっそり見送った後、楸瑛宛《あて》に早文《ほやぷみ》を一通書いた。 「……そろそろ新月だし、この日程であの清雅って男が動いたってことは……」  数日、夜の兇手《き上やフし博》の動きをさぐっていて気づいたことがある。兇手は多分十三姫だけを狙っているわけではない。これを機会に秀麗も殺そうとしている。 ( 「十三姫の替《か》え玉で殺されましたー」ってなれば殉職《じゆんしよく》ですむから、紅家も怒《おこ》れないし)  聞けば、十三姫に会う前、牢城《ろうじよ†つ》に仕事で行ったとき、すでに狙われたらしい。秀麗は 「十三姫と似てる」から間違《まちが》えられたのだろうと思っているが、多分秀麗自身を狙ったのだ。  となれば十三姫でも秀麗でも、相手は引っかかってくる。  あの清雅という男も、ここ数日観察した結果、そう結論づけて今日秀麗を連れにきたのだ。  上司から 「死んでも構わない」許可の出ている秀潜を、清雅が本気で守るかどうかほ五分《ごに》だ。  なら、清雅の罠《わな》にみすみす引っかかるとしても、十三姫も楸瑛に文を出すはかなかった。 (なんつーいけ好かない野郎《やろう》なのっっっ!!)  人生における 「いけ好かない野郎」順位が初めて磨《′うがえ》ったと十三姫は思った。今まではあるバカ野郎が首位独走していたが、今からはあの陸清雅という男にしてやる。  十三姫は信頼《しんらい》のおける珠翠に言付けて早文を出してもらうと、秀麗が途中《とちゆう》でやめざるをえなかった魚釣《さかなlつ》りを引き継《つ》ぐことにした。今は釣り竿《ぎお》が二本もある。やはり竿があると楽だ。  壁《かベ》に立てかけた竿を手に取ったとき、静かに扉が《とぴら》開いた。 「……十三姫、か?」  十三姫は振《ふ》り返った。兄から聞いた通りの容貌《ようぼう》だ。いつくるかと思っていたが−。 「ええ。お初にお目にかかるわね、主上。−ところで一緒に釣りでもどうかしら?」 (……なぜ余は釣りをしているのか……)  劉輝ほ池に張りだした露台《ろだい》に、十三姫と並びながらなぜか釣りをするハメになっていた。  生まれて初めての釣りである。  もともとボーッとするのが嫌《き・り》いではない劉輝は、気持ちの良い風に吹《・ょ》かれながら、思わずまったりしかけた。意外と釣りというのはいいかもしれない。釣れなくてもいいところがいい。 「意外とくるの遅《おそ》かったわねー」  劉輝はハッとした。そうだ。釣りをLにきたのではないのだ。 「御史台と兵部から行くなと言われていたのだ。なので実は今日も内緒《ないしよ》できたのだ」 「へーえ。で、内緒できてまで私に言いたいことって何かしら」 「……そなたを後宮には迎《むか》えられない」  はっきり告げても、十三姫は別に驚かなかった。まあそう言うだろうと思った。 「秀麗ちゃんを愛してるから?」  ちゃん? もしや仲良くなっているのだろうか。劉輝はドキっとした。そういえばいったい二人でどんな会話をしているのだ−。 ( 「劉輝をよろしく頼《たの》みます」 「任せてー」とかって話になってたらどうしよう�)  考えれば考えるほど悪い想像がふくらみ、劉輝は嫌《いや》な汗《あせ》が出てきた。 「あら? 愛してないの?」 「いや! 愛してる。めちゃめちゃ愛してる」 「そーよね。でも後宮の隅《丁み》に私一人くらいいたって支障はないと思うけど。あなたの愛する秀麗ちゃんは、『奥さんは一人じゃなきゃ絶対イヤ! トll〕つていったことでもあるの?」 「違《ちが》う」劉輝はうつむいた。それならどんなに楽だったことか。そんなことならいくらでも叶《かな》えを 「…・逆だ」 「逆?」 「…・秀麗は、余が一人でも誰かを要《めと》ったら、きっとこれ幸いと喜ぶ」十三姫は眉根《まlつね》を寄せた。おかげで食いつきかけていた魚を逃《のが》してしまった。むむ。 「……つまり秀麗ちゃんはあなたのことを全然愛してないってこと?」  劉輝の胸にその言葉はかなり深く突《 「》き刺《さ》さった。向こう側まで貫通《かんつう》したかもしれない。 「うん? でも、さっきの話と繋《rjな》がらないわよねー」 「ち、ちが�そうじゃなくて! 理由ができるのだ。『私が奥さんにならなくたって、もういるんだからいいじゃない』って」 「……あ、なるほど。そういうこと」  そして、そういわれれば劉輝はもう何も言えない。その通りだからだ。  秀麗の決意は生半可なものでは動かせない。劉輝は何度もふられ、嫁《よめ》にはなれないと言われ  た。それでも劉輝に一線《いちる》の望みがあったのは、後宮がカラだったからだパ劉輝が秀麗以外要るつもりがないことを示している限りは、頑固《がんこ》な秀麗も決定的な勝利の碁石《ごしし》を手にできない。  後宮がカラか否《いな》かは、互《たが》いの切り札なのだ。カラなままなら劉輝の切り札になり、一人でも妃を入れれば秀麗の切り札になる。秀贋はそれを楯《たて》に最後まで劉輝を拒絶《さよぜ 「》できる。だから劉輝は何が何でも見合い話を蹴《け》り続けてきた。別に秀麗一人を心底愛しているから、という単純な理由ではない。劉輝と秀麗にとって最初の勝負所になる大事な関門だからだ。 「だから奥さんは一人って宣言したのね。そうすれば後宮《こ∵−》に女のコ入れにくくなるから」 「……そうだ」 「けど、甘かったわね。見様たちはそれを逆手にとった。一人きりの妃、《ヽ、さl、》にバッチリはまって誰も文句のつけようもない、『藍家の姫』を入れてきた。結構長い間、あなたを放っておいた見様たちが、ここにきて手を出してくるとは思ってなかったんでしょ?」 「う……、その通り、だ」十三姫は涼《」−ヂ》しい風に目を細め、滑息《ためいき》をついた。 「……考えが足りなさすぎね。計画とも呼べないわよそんなの。計画なんてものは、どんなに撤密《ちみつ》に練ったって邪魔《じやま》が入るのが当然だし、それが王の計画ならなおさらだわ。後宮に女のコを一人も入れなきゃいいっていうのは最低限の関門であって、入れざるを得ない場合も想定して練るのが戦略っていうのよ。楸瑛見様を当てにするはうが間違い。あなたの失態だわ」その通りだった。ぐうの音も出ない。 「あのね、三見様は楸瑛見様と違って本当に甘くないわよ」 「そんなことをいっていいのか?」 「私はあなたの妃として送られたのよ。三見様たちが選びに選んでね。私が何を話そうがどう動こうが、藍家の不利にはならないって判断したからよ。実際、事実だわ。私が藍家の裏事情を教えたってたいした違《ちが》いはないの。それも見様たちには織り込みずみだから。だから最初に言っておくわ。私が後宮へきたのほ、嫌々《いやいや》でも何でもない。私自身の意思よ」劉輝は隣《レーなり》の十三姫に視線をやった。 「それが不思議だ。……栄耀栄華《・えいようえいが》を望んでいるようには見えない」 「そんな妃なら、藍家の恥《はじ》になるわ。最初から送らないわよ。入ったからには、あなたを支えて、後宮を侍官女官ともビシッと仕切って、良妻賢母《りょうきいH人ぼ》を務める覚悟《かノ、ご》できたのよ」 「……だが、余はそなたを女人《によにん》として愛せない」 「ええ、それでいいわ。だからこそ私が選ばれたのよ」劉輝の目が丸くなった。 「…・どういうことだ?」 「私も愛してる人がいるから」  ポッッと十三姫は呟《つぶや》いた。池を見つめるその横顔は、紛《ま∫》れもなく誰かを愛している顔だった。 「……なら、なんできたのだ? 身分の差か〜だがそなたならそんなもの蹴飛《!?‥.と》ばす気がする」 「そりゃその程度なら蹴飛ばすわよ」  十三姫は目を閉じた。……むかつくけれど、誰より愛した人。 「……前にね、約束をね、したのよ。二見様と」 「約束?」 「その人の命を助けるかわりに、どんなことでもききます、つて」  劉輝は息を呑《の》んだ。 「まさか−」 「あー違う違う。別に後宮入りと引き替《か》えにその男の命を楯にとったわけじゃないわ。三見様は自分で酷い状況《ひlごじようきよう》をつくったりしないの。状況を利用して、相手が従うギリギリの線を見極《みきわ》めて、計算した上で必要なぶんだけ非道なことするのよ。相手が逆らわないように」 「……そっちのが酷い気がするが」 「藍家の当主だもの」十三姫は当然のように言ってのけた。 「……あのときはね、三見様しか助けられなかったの。だから、私は願った」  ずっと一緒《いつしよ》に生きていくのだと思っていた人を助けるために。  会えなくていい。どこかで生きてると思えるだけでいい。この世のどこかにいるあの人を、勝手に愛しているだけでいい。だからどうかあの人の命を助けてください、と−。 「…今回の私の後宮入りはね、そのときの代価なの。だから、私は後宮《ここ》へきたの」  もとより、十三姫は一度した約束は必ず守る。たとえ相手が破っても自分は破らない。そう、  教わって育った。……その性格も見たちは考慮《.七りnリよ》に入れたのだろう。 「……十三姫、その男と幸せになりたいと思わないのか?」 「約束って、そういうもんじゃないわ。私は三見様にあの人の命を願って、かありにrJl轟度だけ必ずいうことをきくって、約束したわ。……私はね、あの人と一緒になって、幸せになりたいなんて、ひと言も言ってない。もしあの男が私の前に現れて、−まあありえないけど、脆《けぎまず》いてオレと結婚《けつこん》してくれって言ったって、それがなんなの? それが�約束』を破る理由なんかになりほしないわ。守らなくちゃ『約束』の意味がないわ。あの時の私が、世界で一番愛する男の命と引き替えに願ったことよ。踏みにじることはできないわ。あの時の私にも、三見様にも一生顔向けできない。愛した男にもね。だってそう教えてくれた当人だものl」劉輝は恥《’ 》じ入った。……その通りだ。  十三姫は劉輝の背を慰《なぐさ》めるように叩《たた》いた。 「まあ、しょうがないわ。うまいことなんとかしようと思ったんでしょ。私を殺して追い返す方がよっぽど簡単よ。切羽詰《つ》まったらそうしたらいいわ。恨《う・り》まないし」  劉輝はぎょっとして十三姫を見たが、平然とした顔をしている。 「本当よ。恨まないわ。もしものときはやっていいから。そう思う方が心も楽でしょう?」 「……十三姫……」 「押しかけて悪かったと思ってるのよ、これでも。でも、あなたに譲《ゆず》れないものがあるように、私も約束を破るわけにはいかないの。だから私が『後宮に入らないで帰る』って選択肢《せんたくL》はのぞいてちょうだい。楸瑛見様にも譲れないものがあるわ。折り合いがつかなければ、排除《はいじよ》するしかない。戦《いくさ》と同じ。一番弱い私を殺せば、当座は何とかなるわ」 「だが、藍家は余をその程度だと思うだろう」十三姫はちょっと目を丸くした。 「……その通りね。ふーん、楸瑛見様と同じことをいったわね。これなら可能性はあるかも」 「え?」  十三姫は笑った。劉輝は初めて十三姫の笑顔《えがお》を見た気がした。 「ね、王様、この世に、どんな難問でも最後は全部うまくいく方法、つてあると思うフ」  十三姫は池を眺《なが》めながら訊《年J》いた。劉輝も同じように池を見た。  鏡のように締麗《ヽ、パい》な池。  この世のすべてはこんなふうに椅麗なはずなのに、風が吹《ヽ》けばすぐにざわめいてしまう。 「……余は秀麗を手放してから、いつもその方法を考えてる」 「そう。じゃ、三人目の男になるかもしれないわ」 「三人目?」 「どんなにこんがらがった問題でも、椅鹿にほぐせる人が二人いるんですって。一人は三見様の中に、もう一人は紅家にいるって聞いたわ。あなたは三人日になるかも。龍蓮見様はわかっててもほぐさないで放っておくから問題外らしいけど」  劉輝は十三姫をまじまじと見た。今の言葉のなかに、ものすごく重要なものがあった。 「……それはもしかして」 「ねえ王様」  十三姫は釣《つ》り竿《ぎお》を露台《ろだい》に置いた。目はうつくしい池を眺めたままで。 「あなたの話をいろいろ聞いて、他の男よりはいいかも、つて思ったわ。−あなたには本当に大好きな女の子がいて、私も愛してる男がいる。私はあなたを男として愛せないかもしれないけど、友人としてうまくやっていけるかもしれない。そう思ったわ。それは本当。嫁《ぶめ》になるなら、できるだけ賢妃になろうとも思ったわ。ちゃんと幸せになるつもりでね。約束だから嫌々きたわけじゃないのよ。そういう人生もいいかもしれない、つて。今もそう思ってる」 「……十三姫」 「しょーがないわね。人生うまくいかないのは当然だわ。全部うまくやれないかもしれない。ちょっとはうまくやれるかも。もしかしたらすべてうまくいくかも。わからないわ。私は後宮                                                                                                                                                   ♪  に入らなくちゃならないし、あなたは入れたくない。楸瑛見様は家か王かでぐらぐら揺《hr》れてる。  あなたの好きな秀鹿ちゃんは私を守らなくちゃならなくて、あげく圏《おとり》にされて兇手に狙《きようし時ね・り》われてる。御史台長官には『万一のときは十三姫を守って死んでこいhって言われたんですって。何の皮肉かしら。なのにあなたは黙《だま》って見てなくちゃならない。もうめちゃくちゃよね」 「…・本当だ。言われてみればめちゃくちゃではないか……」劉輝は本気で頭を抱《カ・カ》えた。十三姫は笑いだした。 「今頃《いまごろ》気づいたの? そのくらい仕事でも切羽詰まってると見たわ。まあうちのトンマな兄もその一因なんでしょうけど。だから秀腰ちゃんもあなたのためにあんなに頑張《がんぼ》ってるのね。愛されてるわ。それはちゃんとわかってる?」 「……知って、る」 「でもそれ以上頑張って欲しいっていうのね」劉輝はリオウの吉葉を思い出した。けれどただ瞑目してうつむいた。それが答えだった。  十三姫は溜息をついたが、それ以上ほ何も言わなかった。 「……約束するわ。兇手のことはなんとかする。絶対死なないわ。ちょっと気になってることもあるのよ。だからこれに関しては本当に心配しないで。あなたはあなたのやるべき仕事に打ち込んでいていいわ。1何《ヽ》が《ヽ》あ《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》も《ヽ》私《ヽ》が《ヽ》あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》の《ヽ》大《ヽ》事《ヽ》な《ヽ》秀《ヽ》麗《ヽ》を《ヽ》守《ヽ》る《ヽ》わ《ヽ》」劉輝はようやく、一つの真実に気づいた。 「……そうか。そのために轍嘆は、ここにそなたを寄こしたのか」 「半分正解」  十三姫はくすりと笑った。それは秀麗より大人《おとな》っぽい笑い方だった。 「……あとの半分は〜」 「自分で気づいてちょうだい。……多分、あなたならわかるわ。あとね、楸瑛見様から伝言」  劉輝はふっと十三姫を見た。十三姫は王がとっくに覚悟を決めていることを知った。  後回しにはできないー十三姫は池を眺めながら呟いた。  確かに、楸瑛見様がのびのびにしてしまったのもわかる。……この王は優《やき》しすぎる。 「……『今度会うときが最後です』ですって」  劉輝は声を詰《つ》まらせた。息の仕方を忘れたような気がした。 「……わ、かった」  劉輝は膝《けぎ》に顔を埋《うず》めた。十三姫はその背中をさすってあげた。       ・翁・巻・  王が仕事に戻《一じご》った後、十三姫は美人の筆頭女官を捜《さが》しにいった。口に一度は捜しに行くのだ。 (さて……と。珠翠さんはどこかしら)  兄から言われていたことを思い返す。どうか気をつけてやってくれ、と。 『……まえまえから少し、心配なひとだから』  何が、とは兄は言わなかった。十三姫もそう鈍《一こい》い方ではないが、別段珠翠に変わったところは見られなかった。ふと、回廊《かいろう》の隅《すみ》にうずくまる人影《ひとかげ》に気づき、ぎょっとする。−珠翠だ。  十三姫はスッ飛び、ぐったりとした珠翠を抱《だ》き起こした。のろのろと珠翠が目を開けた。 「……十三姫……申し訳ございません……大丈夫《だいじようぶ》です……少し、目眩《めまい》が……」  ぐっしょりと滝《たさ》のような汗《あせ》を滴《したた》らせている。十三姫はすぐに窮屈《きゆうくつ》な帯を解き、胸元《むなもと》をくつろがせ、沓《くつ》を脱《ぬ》がせ、汗を拭《ふ》いた。重い轡も遠慮《かんぎしえんりよ》なく抜《ぬ》く。珠翠が持っていた扇《おうぎ》で風も送った。 「……手慣れておいでですね……」 「育った家じゃ、ぶっ倒《たお》れてる人は日常茶飯事《さは人じ》だったのよ。気にしないで」 「どんなお家ですか……」 「しゃべらないで」  前髪《まえがみ》をかきあげ、十三姫は額と首の裏にそれぞれ手を当てる。自分の体温が低いことを自覚しているので、水袋が《みずぷくろ》わりだ。珠翠の顔が目に見えてゆるんだ。 「……とても、気持ちがいいです……」  やがて汗も引き、顔色も戻ってきた。珠翠は肘《!?l‥し》をつき、ゆっくりと身を起こした。 「もう……大丈夫そうです。起きあがれます……。……なんでしょうか? 顔に、何か?」  じうと珠翠を見ていた十三姫は、なんでもないと首を振《ふ》った。 (……見事に正反対なのよね玉華義姉様《ねえさま》と……相変わらず尉《∫》っ鹿《カ》だわ見様)  最初見たとき、十三姫はしみじみ兄に呆《あき》れ返ったものだ。実際珠翠に会って十三姫は一発でわかったのに、当人は全然わかっていないらしい。もう放っておくしかない。 「すごい美人だと思って。不躾《ぶしっ・け》で申し訳ないけど、楸瑛見様とかどう? 考えてみない?」       あいにJ、 「−生憎ですが」  妹lの情けでさぐりを入れてみたが、即座《一てくぎ》に斬《さ》り捨てられた。いつもの珠翠とはまるで違《ちが》う苦虫を噛《カ》み瞥《つ�》したような顔にも、ちょっと驚《おどろ》いた。十三姫はもうちょっと頑張ってみた。 「あら。あれで結構もててると聞いたんだけど」 「そうですね。私がいちいち追っ払《ぱら》わなければ、もっともてていらっしゃったと思います。藍将軍がいらっしゃってから私の仕事が爆発的《げくはつてき》に増え、ものすごく迷惑を被《めいわく・七つむ》りました」 「……ご、ごめんなさい。妹として恥《−J》ずかしいわ……」  わざわざ自分でぶち壊《こわ》すような真似《まね》をして、自虐趣味《じぎやくしゆみ》でもあるのか。  珠翠は口許《くらもと》をおさえた。せっかく介抱《かいはう》していただいたのに、ご家族の悪日をいうなんて。 「あ……も、申し訳ございません。Hが過ぎました」 「いいのよ本当のことだもの。でもねー。妹なら確かに馬鹿だなんだと好き勝手いえるけど、他の女性が兄にぶつくさいえるのって、珍《めずら》しいのよね。客観的には非の打ち所がないし」  珠翠のいかにも疑わしげな目つきに、十三姫は笑った。これは本当だ。 「楸瑛兄様が『非の打ち所がある《11》』自分を見せる入って滅多《めつた》にいないのよ。弱みを見せないように叩《たた》き込まれてるから。そつなく何でもこなして、目につく欠点もないし。だから傍目《はため》にいい男に見えるの。特に女にはね。見様に非の打ち所を見つけた女の入って希少価値なのよ」 「そうですか」まるで何の意味もない 「そうですか」に、さすがの十三姫も撃沈《げヽ、ら人》した。 (……本当……すごい眼中外だわ……こら難しいわ……顔だけじゃだめよ見様……)  だいたい、当の兄が無自覚なところからしてどうしようもない。  まあ、いつでもどこでもしっ≠り者の微笑《げしよう》を浮《う》かべる珠翠がこんな顔をするのも 「特別」だと思うので、自覚したらそこに賭《 り》けるしかない。……かなり切ない 「特別」ではあるが。 「珠翠さん……どこか、体がお悪いの?」 「いいえ……とは、申せませんね。この状況《じよ・つきよ・リ》を見られてしまっては。ですが、大丈夫です」  珠翠はだいぶしっかりした手つきで、身繕《みづノ、ろ》いを始めた。  そして、ふと十三姫を見下ろした。視線に気づき、十三姫は首を傾《カし》げた。 「何か、私に頼《たの》みたいことでもあるのかしら?」 「ほい……十三姫……借越《せ人え.つ》だとお怒《l、カ》りになるかもしれませんが……」  珠翠は小さく 「頼み」を告げた。  十三姫の目が丸くなる。次いで、思案するように、顔つきが変わる。 「…・それ、あなた一人の考え?」 「ほい」  珠翠ほ脆《ひぎまず》き、最後に深々と首を垂れた。 「……どうか……劉輝様のために、後宮へお入りになって下さい」  閏[�軒�↑辛の中の幽霊十三姫が珠翠を介抱していた頃《ころ》、秀麗は思いっきり心の中で清雅を罵倒《ぼとう》していた。 (せ、清雅の人でなし     …   ノ・llー・つつつ〓‥)  秀麗はポッソと一人きりで馬車に取り残されていた《、11ヽヽヽ1ヽヽ1ヽ1ヽヽヽ1》。清雅は牢城《ろうじよう》へ入り、なんと駁者《ぎよしや》まで連れていった。城門の武更まで引っ込み、門はものすごく固く閉《レJ》ざされている。  牢城の常で、やはりここもバッタリ人気がない。傍《そば》を流れる締廣《きれい》な川の音さえサラサラと聞こえてくる。正真正銘《しょうしんしようめい》一人っきりである。 (いくらなんでもあからさますぎる困じゃないの〓‥)  ひっかかるどころか、これでは閏だとバレバレではないか。 「『バレバレなら逆に襲《おそ》ってこないだろ?』ですって〜あ、あんの馬鹿《ぼか》清雅……本っ気で私か死んでもいいと思ってやがるわね……」馬車は完全な箱形で、弓矢も防げるような頑丈《がんじよう》な造りになっている。外は格子《こうし》のはまった細い隙間《すきよ》からのぞかない限り見えないし、今はそれも布で覆《おお》っている。午後だが、馬車の中はかなり暗い。|蝋燭《ろうそく》に火をつけていると、何か光るものが視界を過《よぎ》った。 「あら螢《ほたる》……そっか。もうそんな時期なのね。暗いから夕方だと勘違《かんちが》いして−」  そのとき、ザクザクと誰かの足音が聞こえた。秀麗はぎょっとした。近寄ってくる。……が、やけにゆったりとした足音である。隠《かノ、》す気など微塵《みじん》もないような堂々たる歩き方だ。一人。  少し離《はな》れた場所で、ちょっとおかしそうな声が響《ひび》いた。 「……見慣れたその馬車に乗ってるのは、官吏のお嬢ち《�し上う・》ゃんかな」  秀麗は呆気《あrJけ》にとられた。この独特な声は�濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》が晴れたにもかかわらず、牢城にタダ飯を食べて居座っていた隼のものである。 (……つて、なんで、私がここにいるって、知ってるのよ)  まるで当然のように声をかけてきた。  それに−今の秀麗はもう彼をただの一般人《いつはんじん》とは思っていなかった。秀麗が蘇芳に調べてくれるように頼んだ件は、調べられる限りではあったが、結果が出ている。  彼が毎回濡れ衣で放り込まれていた牢城では、高い確率であることが起こっていた��。  まるで見抜《みぬ》いたように、隼が訊《き》いてきた。 「『牢の中の幽霊《ゆうれい.》』、調べられたか?」  それは、本当に聞こえるか聞こえないかの、微《かす》かな噴《ささや》き声だった。  秀麗は覚悟《かくご》を決めた。時《らち》があかない。落ちてきたボタモチは手に入れる主義だ。 「……調べました」 「やっぱり賢《・カしこ》いお嬢ちゃんだな。それはお嬢ちゃんだけの武器になるぜ」 「あなたは……誰なんですか」 「幽霊だよ。 「牢の中の幽霊』の一人だ」  秀麗の脳裏《のうり》で何かが繋《つ.な》がりかける。多分、とても大事なことを言われた−。 「−十三姫にいわれたことは抜かりなく全部やっておけ。あれに任せておけば、そんじょそこらの兇手《きようし紬》じゃ相手にならん。死なずにすむ」  秀麗は息を詰《つ》めた。……十三姫のことー個人的に知っているようなこの口ぶり。 「ことは新月の夜に起こる。そのときは藍楸瑛を待機させておけ」 「・…あなたは、本当に、誰」 「……あんたが、オレを使うって本気で言ってくれたときは、嬉《、リ れ》しかったぜ、お嬢ちゃん。なるべくなら、死なせたくない」ゆっlくりとした、微かな声は、けれど、確実に秀腰の耳に届く。 「……陸清雅……あいつには、オレのことは言わないほうがいい。面倒《めんごう》なことになる。すっとはけとけ。そうすれば、何《ヽ》も《ヽ》か《ヽ》も《ヽ》す《ヽ》べ《ヽ》て《ヽ》う《ヽ》ま《ヽ》く《ヽ》い《ヽ》く《ヽ》道《ヽ》が《ヽ》開《ヽ》く《ヽ》……かもしれない。ひどく難しいけどな。誰もが考えて、考えて、考えて、妥協《だきよう》しないで選択《せんたく》すれば」螢が秀庫の視界を彷捏《さまょ.》う。ふわふわと、まるで暗示に掛《か》かったかのような気になる。螢は不規則に飛んで、細い格子から、外に彷担いでた。  すると、それまでゆったりと話していた隼の声が、僅《わず》かに驚きに乱れた。 「……螢……参ったな。何の暗示だ」  苦笑いの中に、懐《なつ》かしさと愛《いLこ》しさが混じる。 「お嬢ちゃん、あんたはオレが愛した女によく似てる。螢みたいな女だったよ。だから余計なことをいったのかもしれないな。だけど、これが最初で最後だ……」  声の余韻《よいん》が目眩《めまい》のようにぐらぐら響いた。だから清雅が馬車の扉を開けたのが、隼が去ってどれくらい時間がたってからのことだったのか、秀麗にはよくわからなかった。 「…・清雅……」 「−話《ヽ》し《ヽ》込《ヽ》ん《ヽ》で《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》な《ヽ》。どういう知り合いだ?」  清雅はじっと秀麗を見つめている。その時《ひとみ》はさぐるようでもあり、単に返事を待っているだけのようにも見える。けれど、清雅は無駄《むだ》なおしゃべりはしない。  ∵…・陸清雅……あいつには、オレのことは言わないはうがいい』  秀鹿は清雅をゆっくりと見た。慎重《しんち上、つ》にー。  清雅は 「話し込んでいたな」といった。 「どんな話をしていたの、とは訊かないのね」  清雅の衷情が消えていく。……清雅が知りたいのは話の内容ではなく、 「どんな男」だったのか、なのだ。清雅が牢城で見ていたにせよ、もしかしたら顔まで判別できなかったのかもしれない。隼はかなり馬車に近いところにいたし、顔を隠していた可能性もある。 「それに、知り合いなら、話し込む以外に、何をするの? たとえば私を襲う、とか?」  清雅は何か知っている。その伝手《つて》で、秀麗の知らないことを。  少なくとも、誰かが何かを仕掛《し・カ》けてくるのを確信して、秀席を一人にしたのだ。 「襲ってはこなかったろうが」  隼の話をやめない。秀麗から情報を引き出そうとしている。  襲ってはこなかった。けれど秀麗は圏として連れ出されたのだ。   −清雅が待っていたのは、間違《まちが》いなく隼だ。なら。                   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ      ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ 「清雅。誰も来なかったし、何もなかったわ」 「……お利Hさんになったな、秀麗。ちょっかいかけて鍛《−、 「hh》えすぎたかな。いいだろう、信じちやいないが、是《ぜ》と言うしかないな。どうせ近々会えるだろうからな《ヽヽヽヽ1、、ヽ1ヽヽ、ヽ1》」清雅は笑った。初めて、秀願を名前で呼んだ。  清雅は手を伸《の》ばすと、乱れてほつれた秀麗の髪《かみ》を軽く引いた。 「なに」 「とけかかってるだろ。結.《l♪》い直してやるよ。結構うまいぜ」  馬車が、動き出す。ゆらりと臆燭の火が揺れる。  秀麗が外を見ようと振《ふ》り返ると、清雅の手がするりと轡を抜《かんぎしぬ》き取った。秀麗の漆黒《しっこく》の髪がほどけおちる。同時に腰《こし》をさらわれ、後ろから抱《だ》きしめられるように窓から引きはがされる。  束《つか》の間、清雅は秀麗の小さな後頭部に顔を埋《うず》めた。そのまま小さく笑って低く噴く。 「……静かにしてろ」  唇を《くちぴる》押しっけられているため、声が頭に直接響いてくるかのようだった。  秀麗の心臓が鼓動《こどう》を打ち始める。 「どこに、行くつもりなの」 「さてな。外から鍵《かぎ》がかかってる。どのみち暴れるだけ無駄だぜ」  そういうと、秀麗の髪を指先で軽く杭《す》き、本当に轡一つで器用に結い始めた。逃《こ》げようとしても、髪を軽く引っ張られて引き寄せられる。  スッ、スッと轡の尖端《せんたん》が髪の間を通り抜けていく感覚がする。 「ちょ、ちょっとあんた−」 「黙《だま》ってろ。手元が狂《くる》ったら困るのはお前だぜ。オレほひと月の謹慎処分ですむからな」  耳柔《みみたぶ》に清雅の息がかかる。ひんやりとした清雅の指先が、秀腰の喉《のど》にふれた。もう一方の手は管を止め、鋭《するど》い尖端を後頭部に軽く当てる。清雅の指先一つで秀贋など簡単にどうとでもなる、とでもいうように。秀産は思わず唾《つぼ》を飲みこんだ。  清雅はくつくつと喉の奥で笑った。長い指先を使って器用に髪結いを再開する。 「せっかくこのオレが親切心で珍《めずら》しく結ってやろうってのに、じたばたするなよ」 「あんたの親切心なんてそれこそトドが自分のトド人生を反省するようなもんよ。不気味すぎて裏があるとしか思えないからに決まってるじゃないの」 「心の底から人を信じてたちょっと前までのお前の言葉とは思えないね」秀麗はひたすら頑を巡《めぐ》らせた。   −清雅の目的は、なに。 (最初に清雅はなんていってた?) 『確かめたいことがある』  そういったのだ。そのひとつはさっきの隼で間違いない。が、多分、もう一つあるのだ。  清雅は無意味なことはしない男だ。 (……何を、確かめたいの) 「借りてきた猫《ねこ》みたいにおとなしくなったな。�ただの時間つぶしだ。少し付き合え」  まるで心を読んだかのように清雅が言う。 「時間つぶし?」 「お前のことを誰《ヽ》が《ヽ》迎《ヽ》え《ヽ》に《ヽ》来《ヽ》る《ヽ》か《ヽ》と思ってね」  生え際《ぎわ》かち髪の先まで、さらさらとした感触を楽しむように指先で杭きおろす。拍子《ひようし》にうなじに指先が触れ、羽のように微かな体温を残す。言動とは正反対の、優《やさ》しい仕草だった。癖《J、せ》のように一度そうしてから、指先に引っかけるように髪をわけていく。驚《おごろ》いたことに、確かに清雅は手慣れていた。きゅっと髪紐《かみひ■U》を唇の.端《はし》にくわえて器用に結んでいき、轡をさす。 「−終わりだ。こっちのが似合うぜ」  そんなことをいわれても、鏡もないのでどうなってるのかわからない。 「…・へソな髪型《かふがた》にして笑いをとろうってんじゃないでしょうね」 「ああ、そうすりやよかったな。オレとしたことが抜かったぜ。今度やってやる」  今度、ということは、本当に殺すつもりはないらしい。秀麗はホッとした。 「なんでこんなに手慣れてるわけ。妹さんでもいるの?」  何気ない問いだったが、急に清雅の周りの温度が下がった。ゾクリとするほどの冷徹《−1いてつ》さだ。 「調べればわかることをいちいち訊《き》くなよ」  馬車はまだがたごと揺れている。かなりの砂利道《じやl)みち》らしい。ということは外れに近い。  大きいとはいえない馬車で、秀麗はめいっぱい清雅から距離《毒−よnリ》をとった。それに気づいた清雅の目が面白《おちしろ》そうにきらめき、寄ってきた。まるで子ネズ、、、を見つけた猫のようだ。 「なっ、なんで寄ってくんのよ!」 「逃げるなよ。逃げると追いつめたくなるだろ」 「そんなのあんただけよ! 人としてどうなの」 「色気のない女だな。こういうときはもっと別の反応するもんだろ。年頃《としごろ》の男女が二人きりで胸ときめかせるのは別のこ.となんだろフ」 「タンタン講座は普通《ふつう》の一般人《いつはんじ人》用で、あんた全然あてはまらないから信用しないでください」 「充分《じ軸うぷん》ときめいてるぜ」 「最小公約数で見たっていじめて喜んでるようにしか思えないんだけど」 「オレのトキメキはそこらへんにあるらしいな」逃げ場所を探して視線を巡らせた一瞬の隙《いつしゆんすき》に手首をからめとられた。もう一方で払《はら》いのけようとすれば、それもやすやすとつかまれる。 (ほっ、膝蹴《ひぎげ》りで股間《こかん》を蹴り飛ばす!)  実行に移そうとしたが、足払《あしばら》いをかけられて座席に座る格好になる。太腿《ふともも》の間に衣《きぬ》ごと片膝《かたひぎ》を割り入れられ、身動きがとれなくなった。 「甘《あま》い。いっとくがオレは結構強いぜ〜」 「ど、どどビーしようってのよ」 「どうするかな。−蜃樹様にしたように、オレに取り入ってみたらどうだ?」  目許《・、ちもと》は笑っていたが、清雅の目は冷ややかな嘲《あぎ!?》りに満ちていた。  その瞬間、《しゆんかん》秀麗は唐突《とうとつ》に理解した。清雅は秀鹿というより、女性を信じていないのだ。  絳攸のように女嫌《お人なぎら》いなどという話ではない。女という生き物そのものに不信を抱いてる。  信頼《し人らい》も、信用にも値《あたい》しない。感情で裏切り、媚《こげ》を売り、男に取り入り、利用し、欲しいものは何もかも手に入れないと気が済まない。危険になればか弱いふりで助けてもらいたがる。  そんな心の声が聞こえてきそうなHだった。  秀麗の顔が歪《ゆが》んだ。なぜかわからない。悔《1、や》しくて悔しくて情けなかった。清雅はただ奪《うぼ》いたいのだ。秀麗が懸命《けんめい》に守ってる理想や、誇《はこ》りや、心から信じているたくさんの大切なものを。  清雅も気づいた。秀膚が自分の心から、巧妙に隠《こうみようカく》していたはずの真実をすくいとったことを。  思わず両手首を強く捻ると、ますます清雅を脱《にら》みあげてくる。 「……によっ、やりたいことやったらいいじゃないの! 私はーあんたなんかに取り入ったりしない。あんたが奪えるものなんか何もないわ。この先どれだけたったって同じよ!」  清雅の唇に凄艶《せいえ人》な微笑《げしよう》が浮《う》かぶ。まるで、それを聞きたかったとでもいうように。 「−その言葉、忘れるな」  ぐっと顔が近づいた。秀麗は何をされるかに気づいたが、日を背《そむ》けたくはなかった。何をされようが、秀麗は何も失わない。だからひたすら脱み続けた。清雅の前髪《まえがみ》が秀露の額にこぼれ落ちる。二人ともに、ほんの一瞬でも視線を逸《そ》らそうとはしなかった。退《ひ》いたら負けだった。  清雅の双絆《そうぼう》に自分の姿が映りこむ。秀麗は初めて、いつもどんな顔で清雅を見ていたのかを知った。唇が重なる寸前、清雅の理知的で冷たい眼差《よなぎ》しが、少しだけやわらいだ気がした。  1が、指一本の隙間を残して、清雅の動きが止まった。視線が馬車の外へ動く。  秀麗も気づいた。馬蹄《げてい》の音が、聞こえてくる。清雅はクッと笑った。 「……運がいいな?」  ともすれば唇が触れ合う距離で、息がかかる。まるでHづけされているようで、震《ふる》えがきた。  伽《かせ》のようだった手首が自由になる。何事もなかったように清雅が離《はな》れ、徹頭徹尾《てつとうてつび》仕事の顔で外の気配をうかがう。……確かに、まっすぐ馬が近づいてくる。  秀麗は詰《つ》めていた息を吐《ま》き出した。そして気づく。……見られている。  しかし秀麗は気のきいた嫌《いや》みをいえるほど思考力が残っていなかった。ヤケッパチで呟《つぶや》く。 「……いえーい。馬、バソザィ。帰ったら|厩舎《きゅうしゃ》に行って人参《にんじん》たくさんあげなくっちゃ」 「いうことがそれかよ」 「他に何をいえっての」 「オレは邪魔《じやま》が入って、結構本気で名残惜《なごりお》しいんだぜ。残念」  親指についていた白粉《おしろし−》に気づき、ぺろりと舌先でなめとる。誘《きモ》うようにゆっくりと涼《すず》しげな目を秀麗に向ける。馬鹿《ばか》にされているのだと思い、秀麗は盛大にそっぽを向いた。  馬車が止まる。外側の鍵を外される音とともに、扉が《とぴら》開く。秀麗は目を丸くした。 「……藍将軍!?」 「やあ、秀麗殿。お迎えに」  いつもの微笑で楸瑛はチラリと清雅に視線をやった。一瞬、眼差しが険しくなる。 「こんな時間に、おかしな方へ向かう官用馬車があるので、どうしたものかとね。−障御史……だったかな。秀麗殿は私が送ってさしあげても勿論《もちろん》構わないね?」 「ええ。どうぞ」  清雅が先におり、嘘《うそ》くさい笑顔《えがお》全開で秀庫に手を差し伸《の》べる。払いのけようとすると、巧妙に手首を返し、腕《うで》をつかまれる。ぐっと腰《こし》をもちあげられ、軽々と地面に下ろされる。 「�藍将軍」  秀麗と一緒《いつしよ》に軍馬に騎乗《きじ上、ワ》した楸瑛に、清雅がゆっくりと声をかけた。 「……あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》が、迎えにいらっしゃるとはね」  清雅の微笑と、楸瑛の眼差しが一瞬だけ交叉《こうさ》する。楸瑛は応《こた》えず、手綱《たづな》を打った。  馬を走らせながら、楸瑛はチラリと後方を見た。  −陸清雅。歳は棒牧より下だが、なぜ出てこなかったのかわからないくらいの頭脳だ。  葵皇毅の隠し玉といわれているが、国試組でないからこそ伏《ふ》しておけた男だ。国試だと及第《きゆうだい》順位がハッキリ出る。最初から一身に注目を浴びてしまう。だからこそ出世もしやすいが、清雅ほ逆だ。資蔭制《しい人せしl》で入ってきたからこそ、とっておきの隠し玉になり得たのだ。  秀麗が彼の存在を暴《あば》いてくれなければ、まだ気づかないでいたかもしれない。  それは結構ゾツとする考えだった。あれだけの能吏《の∴ノり》ながら、いまだ監察《かんきつ》御史のままでいる。  武官文官問わず、宰相《さいしよう》までも引きずり下ろすことができる官位に。  楸瑛が行けば、気《ヽ》づ《ヽ》か《ヽ》れ《ヽ》る《ヽ》のは半々だった。が、まさに気づかれた。  けれど、秀麗がどこへ連れ去られるかもわからないのを、放っておくわけにはいかない。  だからこそ、十三姫《n.め》は楸瑛に、迫ってくれるように頼《た・の》んだ。 「……秀麗殿、よくあの男と渡《わた》り合ってるね」 「努力はしてますが、全然渡り合えてません」 「今の気分は?」 「馬バンザイ、藍将軍バンザ一イっlて感じです」 「……なんの集会だろうって感じの掛《わ》け声だね」  楸瑛は思わず笑ってしまった。それに、秀麗はホッとした。笑えるなら、まだ大丈夫《だいじようぶ》だ。 「ありがとうございました、藍将軍」 「いいえ。……ところで秀麗殿、何があったか、訊いてもいいかな」  秀麗は隼を思い浮かべ、迷った。けれど、清雅には言わなかったことを、告げた。 「…・新月の夜、藍将軍を、後宮へ配置しろ、と。藍将軍でなければダメだそうです」  新月−あともう少しだ。 「わかった。ありがとう。その男のことは、十三姫以外には誰にも内緒《ないしよ》にしてくれ。王にも」  鰍嘆の前にいた秀麗は、そのときの彼がどんな顔をしていたのかはわからない。けれど、今まで聞いたことのないような、低く鋭《するど》い声だった。  しばらく無言で馬を駆《か》けさせ、とっぷりと日が暮れるころ、城が見えてきた。  撒嘆はふと、いつものやわらかな声に戻《も戸】》った。 「……秀麿殿、君は、何もかもすべてうまくいく方法があるといったら、信じるかな?」  少し自嘲《じち上てり》するような声だった。秀麗は隼の言葉を思いだした。 「……それ、私に会いに来た人も、同じことを言っていました」  微《かす》かな沈黙《ら人もく》が落ちる。まるで失ってしまった何かを懐《なつ》かしむかのような沈黙だった。 「…・……君は?」 「信じます。今までも、これからも。……藍将軍は?」 「私はね、一度も、信じたことはなかったよ。そう……ただの一度も」  初夏にしては少し冷たい風に運ばれて、楸瑛のひそやかな囁《きさや》きほすぐにかき消えた。  秀麗もそれ以上は訊かなかった。  −後宮の門まで乗り付けると、秀麗を抱《だ》き下ろす。馬車から出たときも思ったが�。  さほど複雑な結.《愴》い方でない。すっきりまとまり、けれど見えないところを編みこんだり、ちょっと手が込んでいる。微笑めば可愛《かわい》らしさを引き立て、清雅を睨んだときにはきりりとした活廉《せいーlん》さが際《きわ》だった。甘すぎず、少女らしさも残る、そのまま姫にも官吏にもなれそうな髪型《かみがた》だ。 「その髪、とても似合っているよ。君に一番似合うかもしれない。やってくれたのは珠翠殿《ごの》かな。十三姫じゃまだ無理だろう。君のことを一番知ってるのは自分、みたいな自信を感じる」秀麗は即座《そくぎ》に哲《かんぎし》を引っこ抜《山》き、髪紐《かみけも》を次々ほどき、ぐしゃぐしゃと乱暴に磐をおろした。まるでヤケ酒をあおる親爺《おやじ》のようなやさぐれた目をした秀麗に、轍域はまさか、と思った。 「…・陸清雅くんの特技には、髪結いがあったりして……」 「付け加えておいて下さい。・‥…藍将軍」 「何?」 「二度は聞きません。劉輝のこと、どう思ってらっしゃるか、訊《l−》いてもいいですか」 「好きだよ」  楸瑛は微笑んだ。そして踵《きげ丁》を返し、再び騎乗する。 「……でもね、秀麗殿。好きと忠誠を誓《ちか》うのは違《ちが》う。……愚《おろ》かなことだね。私はようやくそれに気づいた。……遅《おそ》すぎたかもしれない」凪《な》いだ水面《みなも》のように、静かな声だった。それで、秀膳は気づいた。  桃《もも》をもらったときとは違う。楸瑛はもう、心を決めたのだ。  おそらくは、周囲からどう思われるか承知の上で、登城もやめて。  手綱をうち、駆け去った楸瑛の腰に、……�花菖蒲《はなしようぷ》″の剣《け人》はなかった。       ・翁・翁・  十三姫は、無事帰ってきた秀麿にホッとすると同時に、しおしおとした秀麗に目を丸くした。 「あら、ちょっとどうしたの。そのぐしゃぐしゃな髪」 「……ごめんなさい……せっかくやってくれたのに」 「いいけど、なんか『きう』って喚《わめ》きだしたい顔してるわねー」 「なんでわかるの。でもその前に、馬にたくさん人参《にんlじん》あげたい」  十三姫はバッと顔を輝《かがや》かせた。ものすごく嬉《うーl》しそうである。 「最高じゃない。あれこれやったら一緒に行きましょう。馬が寝《ね》ちゃう前に。時間的に満腹だと思うけど、一本くらいなら体重に支障はないと思うし」 「……馬、好きですよね十三姫」 「ま、ね。あなたが官吏好きなのと同じ?」秀麗は首を捻《ひね》った。……わからないたとえだ。前からたびたび思っていたが、ちょっとずれてるこの感じには覚えが−。 「あ、わかった。龍蓮お兄ちゃんに少し似てる……」 「なんですって! いや一つ、すごい侮辱《ぷじよノ、》!!私の一生は終わったも同然よ。馬に似てるっていわれたほうが百倍マシだわ!」 「ええー〜それどうなんですか。龍蓮は馬以下ってこと?」 「間違《まちが》い! 馬以下なのは当然で、えーと、……馬糞《ぼふん》以下。馬をとって……フソ以下ね!」  本気でぶつぶつ言っている十三姫に、秀麗はこらえきれず爆笑《ばくしよう》した。  ひたすらゲラゲラ笑い転げた。涙《なふだ》まで出てきた。 「そこまで馬に敬意を払《はら》わなくても!」 「……ちょっと、そんな笑うこと言ってないわよ。真面目《まじめ》に言ったんだけど。ちょっと!」  ふっと、開けていた露台《ろだい》の扉から、ふわふわと光るものが目の前を横切った。不規則なその動きに、秀麗は目を丸くした。そうか。ここも水辺だし−。 「あら、螢《はたる》……今日はよくよく緑《えん》が−十三姫?」  十二姫は、チカナカと光る螢を、魅入《みい》られたように見ていた。どこか泣きそうな顔で。  秀麗はなぜか、隼の言葉を思いだした。十三姫を知っている口ぶりをした男。 「十三姫……浅黒い肌《はだ》で、隻眼《せきがん》の男の人に、覚えはありますか?」  十三姫は息を呑《の》んだ。弾《はじ》かれるように秀麗を見つめる。唇が震《くらげるふる》えていた。 「……会ったの……!?」  秀麗はさっきのことを話した。  十三姫はうってかあって厳しい顔で、何かを考え込んだ。 「十三姫……」 「待って」  十三姫はポッリと呟《つぷや》いた。懇願《こんがん》するように消え入りそうな声で。 「お願い……もう少しだけ待ってちょうだい。ごめんなさい、一緒に人参やりにいけないわ」  秀麗は馬に人参をやりに行きながら、今日のことに思いを巡《めぐ》らせた。 (清雅が待っていたのは隼�ということは)  間違いなく、隼は秀麗と清雅が追う兇手《きようしゆ》ということなのだろう。少なくとも何らかの形で関《かか》わっているはずだ。それは隼に親しみを感じていただけに、秀麿の心を沈《しず》ませた。それに。 『幽霊《紬う‘.1い》だよ。 「牢《ろう》の中の幽霊」の一人だ』  あの言葉の意味が秀麗の想像通りなら、蘇芳と一緒に、何通かの投書から何気なく調べ始めたこの一件は、遥《はる》かに重大な意味を持つことになるー。 (……だから清雅がこの件に関わったのかしら? でも−)  現在、牢城関係は秀麗に一任状態だ。いくら清雅でも、なんのツテもなくこれに辿《たご》り着けるだろうか。隼も 「秀麗の武器」だといった。多分、清雅は知らない。  が、清雅だって秀麗の知らない情報を握《にぎ》っているのは間違いなかった。それも秀麗より多く。 (その一つが隼さんに関する情報。でも清雅でも掴みきれないことがあって、私を圏にした)  たとえば容姿。あれだけ目立つ隼の容姿のことを、清雅は一つも口にしなかった。  それから、隼のことを他の誰かが調べているのかどうか。そうしたら藍《ヽ》将《ヽ》軍《ヽ》が《ヽ》き《ヽ》た《ヽ》。隼か秀麗のどちらかの情報を随時《ずいじ》つかんでいないと、ああはこれない。隼を追っているのが藍楸瑛と知って、清雅は笑った。清雅にとって、それは重要なことだったのだ。  けれど、まだ何か足りない気がする。何か気づいていないことがある気がする。  それは間違いなく清雅が知っていて、秀麗が知らないことのはずだった。  考え込んでいると、|厩舎《きゅうしゃ》に着いてしまった。後宮にも小さな厩舎がある。  秀麗は人参をやった。太らないように一本だけ。 「……結構可愛いかも」  すり寄ってきた馬を撫《な》でて、秀麗はちょっとほだされた。十三姫の気持ちが少しわかる。 「余は馬になりたい」  ぼそっとうしろから言われた言葉に、秀鹿は笑って振《_》り返った。 「あら、十三姫と同じね、劉輝」  秀麗は首を巡らせると、小さな四阿《あず圭や》を発見した。 「星でも見ましょうか」  秀麗が歩き出すと、すぐうしろを劉輝がついてきた。  秀麗は懐かしく思った。最初に出会ったころと、同じようで。  あのころはいつだって秀席が先を歩き、劉輝が後ろをついてきた。後宮を出たら、秀麗の遥か先を、劉輝は歩いていた。いつか�秀麗は追いつける口がくるだろうか。  二人は仲良く並んで四阿の腰《1」し》かけに座った。石造りのそれはひんやりと冷たい。  ちょっと首をあげれば、夏の夜臭《よぞら》が広がっていた。  劉輝は臭を見なかった。じっとうつむいていた。 「……おめでとう、などといったら、怒《おこ》るぞ」 「いわないわ」  劉輝は思いきって、実はものすごく気になっていたことを訊いてみた。 「少しは、や、や、や、ヤキモチ焼いたか?」 「そうねぇ」  秀麗はちょっと考えてみた。そしてポッリと正直にこぼしてみた。 「……ちょっと妬《や》いたかも。十三姫がくるってきいて、ドキッとしたし」 「本当か!?」 「うん。まあ静蘭が奥さんもらっても妬くと思うけど」  劉輝は微妙《げふよう》な気持ちになった。けれどそれが、秀麗の本音なのだろう。それに考えてみれば、劉輝だって静蘭が秀麗以外の見知らぬ女性と結婚《!?‥つこん》したら、ヤキモチ焼く気がした。 「……でも、奥さんと幸せになって嬉しいって、心から喜べるように努力するわ」  そういうことなのだ。劉輝の静蘭に対する想《おも》いは、恋《こい》ではない。けれど誰よりも愛しているし、かけがえのない大切な人だ。秀麗にとっての、劉輝と静蘭がそうであるように。  劉輝がいまだに訊《き》いていない問いを投げたら、ちゃんと秀麗は望む答えをくれるだろう。好  かれていないとは思わない。愛されていないとも思わない。秀麗は誰かを好きな気持ちにあえて名前凌付けないだけなのだ。つければ、縛《しぼ》られ、引きずられてしまう。余計な感情がついてくる。抱《カカ》えたまま劉輝と付き合うには、互《たが》いの立場も責務も重すぎる。時間をかけて乗り越《こ》えていく暇《ひま》も余裕《よゆう》もない。即位《そく高》から怒涛《どとう》のように過ぎたこの三年。  だから、秀麗は劉輝のことを好きな気持ちに名前を付けない。何があっても揺《ゆ》らがずに傍《そぼ》にいるためには、そうであるしかない。恋をすれば、別れも執着も憎悪《しゆうちやくぞうお》も嫉妬《しっと》もついてくる。それでは劉輝の官吏にはなれない。ずっと傍にはいられない。  だから秀麗は劉輝に恋をしない。大好きで大切だから�恋はしない。  ……心のどこかで、劉輝もそのことに気づいていた。  それでも秀鰯は最後の陣地《‥しんち》を残してくれている。  劉輝があきらめ・ていないことを知っているから。 「そういえば、リオウくん、謝りに行ったフ」 「ああ」  劉輝はそのときのことを思いだし、嬉しそうに笑った。  一緒に刺繍《ししゆう》をしていた珠翠が出て行ったまま帰ってこないのを不審《ふしん》に思い始めたlとき、リオウがやってきたのだ。そして珠翠が具合を悪くして室に戻ったことと、謝罪を口にした。 (リオウは何も間違ったことはいってないのに) 「……良い子だな、リオウほ。一緒に刺繍にも付き合ってくれたのだ」 「…・そりゃ本当まれに見るいいコだわ」  劉輝がくれた、桜花《おうか》刺繍の巾《きーl》は、藁人形《わらにんぎよう》と一緒に大切にしまってある。 「リオウは不思議だ。余に敬語を使わない。……ずいぶんと久しぶりのことだ」  そしてどこまでも率直だ《そつちよく》った。……もう二度とないかもしれないと思っていたことだ。  楸瑛と絳攸が傍から離《はな》れて、リオウがきた。繚家の戦略だろうがなんだろうが。  劉輝は確かに、肝庫《・? こ》で一緒に過ごしたあの夜に、心を慰《なぐさ》められたのだ。  それでも、別の何かで、|寂《さび》しさの埋《う》め合わせをすることはできない。  誰も誰かのかわりにはなれない。 「ねぇ劉輝、藍将軍がお休みをもらったのは聞いたけれど、経倣様はどうしたの? L 「へソな噂が《うわさ》あるようだが、単に締牧は超多忙《ちようたぼう》なだけだ」  秀麗の叔父《おじ》が仕事をしないせいで。と劉輝は心の中で付け足した。 「寂しいならあなたから会いに行けば?」  思わぬ言葉に、劉輝は秀麗を見下ろした。……会いに行く? 「……でも本当に、線紋は忙《いそが》しくて、邪魔《じやま》をしたら怒られる」 「なら謝って帰ってくればいいじやない。あなた、私に会いに来るときほそんなことまったく考えないでふら〜つときてたじゃないのよ」 「……そういえばそうか」ただでさえ樅瑛不在の締牧が劉輝の執務室《しっむしっ》までたどり着くのは難しいのだから。 「今からでも行ってくれは?」 「今から?」 「私とはいつでも会えるじゃない。呼べばちゃんと行くし」  劉輝は笑った。こないだ府庫でリオウとご飯を食べたように、呼ばなくてもきてくれる。 「そうか。そうだな」  秀麗は夜景を見上げた。宝石箱をひっくり返したような菜。 「藍将軍は、あなたのことが好きだって、言ってたわ」 「わかってる」  秀麗は小さく笑った。そう。劉輝が知らないわけがないのだ。 「……そういえば午《ける》も気になったが、本当に大丈夫《だいじようぶ》なのかあれで」  劉輝が眉根《圭細ね》を寄せて桃仙宮を振り返った。秀麗は首を傾《カし》げた。 「なにが〜」 「だから−」  そのとき劉輝にいわれた思わぬことに、秀麗の目が見開かれた。  清雅が知っていて、秀麗が知らなかったことが、このときまた一つはまった。       ・翁・薔・                                                                                                                                                                                             _一  �吏部侍郎室でまだ仕事をしていた絳攸はコソコソ、と窓を叩《たた》く音に、ふと顔を上げた。  さすがの吏部ももうほとんど仕事を終え、残っているのは経倣くらいだった。  ひょこっとのぞいた顔と、呑気《のんき》にふられた手に、絳攸はあんぐりと臼を開けた。 「ばっ……」  次いで絳攸は怒鳴《ごな》り飛ばそうとし、力が抜《ぬ》けた。なんだか笑い出したくなった。  窓を開けに行くと、劉輝はそわそわしていた。その手には酒瓶《さかぴん》がある。しかも飲みかけ。 「……邪魔だと怒られたら帰ってくれはいいといわれたのだが」 「秀麗にか?」  こくっと領《うなず》いた劉輝に、経俄は笑った。 「いい輔佐《ほき》になるな、秀麗は。−入れ」 「え」 「その酒を呑《JJ》むくらいの時間はあるだろう。ちょうどもう仕事に嫌気《いやけ》がさしていた頃《ころ》だ」  劉輝の顔が明るくなる。 「これは通りすがりの管尚書がなんでかくれたのだ。『悪かったな』って。何の話だろう?」  締牧はなんとなくわかった気がした。……悠舜がまずは工部尚書を陥《お》としてくれたのだ。  唇の端《くちげるほし》で笑むと、劉輝の額をはじいた。 「ありがたく呑むか。……薄《うす》めてな……」     長都脳�▼ニ重の任務  �数日が過ぎた。  清雅はあれから一度もこず、秀麗も桃仙宮から滅多《め∴/た》に出なかった。  が、ピタリと音沙汰《おとさた》がなくなった本当の理由は多分�。 (何か、つかんだんだわ……)  任務解決の糸目をつかんだから、もう秀麗は必要ないのだ。けれど、未だに清雅にも何の動きもない。これも、明らかにおかしかった。……何かを待って息をひそめているのだろうか?『ことは新月に起こる』隼の言葉を信じるなら、清雅は新月の口を待っているのかもしれない。隼もあれは秀麗だけの情報とはいわなかった。清雅には別の入手経路があるのかもしれない。 (問題はその『別』が何かってことよね……)  清雅が手にしている、この件の核心《かくしん》がそれのはずだった。  秀麗も、あの日劉輝にもらった情報で何かつかめそうな気がしたが、まだカケラが足りないのか、いまだにあやふやな輪郭《りんか・ヽ》のままで時を過ごしている。  もう少しで一本につながりそうなのに�。 『考えて、考えて、考えれば−』  隼のゆったりとした声が繰《く》り返し警告のように秀麗の脳裏《の・うり》を巡《めぐ》る。  ……その通りだ。秀麗は、まだ極限まで考えていない気がする。足りないのは思考力だ。  いちばんはじめの地点に戻《もご》ってみよう。  十三姫《けめ》暗殺。確かに重大事だ。だが、後宮での暗殺は昔から珍《めずら》しくもない。それこそ王だって死ぬときは死んできた。何より葵皇毅の直々の命令。担《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》は《ヽ》清《ヽ》雅《ヽ》と《ヽ》い《ヽ》う《ヽ》最《ヽ》精《ヽ》鋭《ヽ》の《ヽ》人《ヽ》選《ヽ》。 (そういえば……どうして、葵長官は清雅だけじゃなくて私にまで命じたのかしら)  そのとき、ひょっこり蘇芳の顔がのぞいた。 「またむすかしー顔してんね」 「タンタソ。一人きりで仕事たくさん任せちゃってごめんね」 「別にt。修行《しゆぎよう》だと思ってるから。地道に修行」  何の修行だろうと秀麗は首を傾げた。  蘇芳はくつろいだ様子で秀麗の前に座り、冷茶を二人分入れた。 「ありがと。……どうして今回の一件、私と清雅に任されたのかしらって」 「あんた一人じゃ不安だからじゃないの」 「おかしいわ。じゃあ余計清雅だけに担当させりやいいじやない」 「そっか。じゃt、清雅はたくさん他《はか》に仕事あって大変だから? でもいつものことだよな」  その瞬間、《しゆんかん》秀麗の中で何かが一つ、はまった。 「…・タンクソ、すごいわ。多分それよ」 「は?」 「清雅は、他《ヽ》に《ヽ》仕《ヽ》事《ヽ》が《ヽ》あ《ヽ》る《ヽ》の《ヽ》よ《ヽ》」  秀麗は額を押さえ、目を閉じた。ぐるぐると糸をたぐっていく。釣《っ》り上げかけた獲物《えもの》を逃《のが》さないうちにと、必死で言葉に出して、まとめていく。 「……十三姫暗殺の…土嚢に……もっと大きな案件《ヤマ》があって……それに清雅を集中させるために、表の十三姫の件は私に振《ふ》り分けられた……裏の案件は大きすぎて、十三姫のことまで清雅は構っていられない。それくらいなら私でなんとかなると葵長官は判断した……。でもその裏……もっと、大きな何かが、あるんだわ……十三姫暗殺と細い糸で繋《つな》がってる何か」 「−当たり」秀麗はぎょっとした。後宮なのに、この声は�。 「蜃樹様……!」  蜃樹はホクホクと嬉《うわ》しげに十三姫仕様の秀麗を眺《なが》めた。 「可愛《かわい》い〜。すごく可愛いね。見に来た甲斐《 �し》があったな。素っ気ない官服とかじやなくて、そういうお姫様みたいなカッコでお仕事してほしいな。私の権力で朝議通すから」 「権力はもっと有意義に使ってください。じゃなくて、なんでこんなとこに!」 「エライから」 「そういう問題じゃないでしょう!」 「じゃ、追い出す? 出てけって言われたら、窟直《ナなお》に出てくよ。嫌《さ・リ》われたくないから」 「……どうぞお座り下さい。冷茶を出します」  秀麗はくっと顔を背《そむ》けた。……この人と付き合うとどんどん真っ正直から外れていく。  とはいえ、真っ正直で手に入らない情報は不法に手に入れるしかない。  蘇芳がもう一客茶器を出して、冷茶を注ぐ。秀露は思いだして立ち上がった。 「そうだ。蜃樹様と次にあったら渡《わた》そうと思っていたものがあるんです」 「恋文《こいぷみ》だね? 、わかってるよ。勿論《もちろん》受けとるとも。歳の差なんて障害じゃないよね」 「歳の差以前に色々障害があることをわかってください。これが恋文に見えますか」 「桃。僕の大好物。でもなんで一個と一切れなんてびみょ〜な感じなのかな?」 「皇毅様が、蜃樹様から桃をもらったら不幸になるっていったので、お返ししょうと」  だいぶ前のことな気がする。言いながら、秀麗は首を傾げた。……あれ?不幸になるんだったっけ〜まあいい。確かそんな感じのことだったはずだ。  蜃樹は憤慨《ふんがい》した。 「皇毅が? なんて失礼な男なんだ。せっかくの私の好意を不幸の桃にするなんて。人の恋路《こいじ》を邪魔《じやま》するつもりかあいつ。ちなみに他になんていってた?」 「え? えーと確か……ろくでなしのトドの背後霊《はいごれい》みたいな男……とかなんとか」またまた秀麗は首を捻《ひね》った。……あれ? こんな感じだったろうか。確かにこんな単語を言  っていたが、何か違《ちが》う風につなげてしまった気がする。  蘇芳もへソな顔をした。……あの葵長官もそんな楽しいことをいうこともあるのか。 (ていうか、どんな顔していったんだ……見たかったな⊥しかし勿論当の曇樹は怒《おこ》った。 「ろくでなしのトドの背後霊みたいな男だって〜さすがの温厚《おんこう》な私だって怒るよ。私のどこの何をどう切り紺《∫》りしたらそんなのになるんだ。いまだかつてそんな微妙《げみよう》でわけのわからない判体になったためしはないよ。あとで文句いいに行ってやる」 「ご存分に。桃はお返しします。一個と一切れでしたよね。これで帳消しにしてください」 「……君も不幸の桃だと信じてるんだね。桃は返却《へ人きやJ、》不可。一世一代の決意であげたんだもん」 「ふらっとやってきてテキトーに頂いた記憶《きおく》しかありませんが」 「君はいつでも僕の真実を見抜《みね》くね。実はその通りなんだ。手持ちに桃しかなくてね〜」  婁樹と話していると、本当にどれが嘘《.? そ》で真実なのかわからなくなってくる。雲をつかむように、すべてがあやふやに思えてくる。そして話の芯《し人》をいつのまにか見失う。 (修行!)  秀麗はぐっと強く日を閉じた。−流されないように。 「…・当たり、つて、言いましたよね」 「そんなこと言ったかな」 「清雅のこと……」 「今日は何をくれるのかな?」  秀麗は考えた。もともと真樹の来訪は予定外だ。しかも自称嘘《じしトやうエエそ》つき。まだ何が何でも逃せない場合なわけじゃない。ふらっとやってきた幸運をつかめなかったら自力で頑張《がんぼ》ろう。  秀麗はちやきっと立ち上がった。 「−今すぐお姫様仕様をやめて、付け髭《ひげ》つけてむさい武官の扮装《ふんそう》をしてこようと思います」 「待って!」  畳樹は案外あっさり引っかかった。結構本気で引き留めている。 「そんなもったいない!……わかった。ついでにこないだみたいにこの桃剥《ももむ》いてくれるっていう特典もつけてくれたら、桃を食べる間だけ世間話してあげる」 「まあそれくらいなら」秀麗は座り直した。 「やるなぁ。頑張るね」  妾樹は嬉しそうに笑った。二回目でも、まだ自分から何かを差しだそうとはしない。少ない情報を元に卓樹から 「待って」と言わせる《ヽヽヽヽ》方法をさがしてくる。その姿勢に対するご褒美《はうげ》だ。 「引っかかってくだきってありがとうございます」 「その格好、とっても可愛いし。こうなると、君が『私の何が欲しいですか』って訊《j−》いてくるときが俄然《がぜん》楽しみになってきたな〜。そうしたらなんて答えようか、今から考えておこう」 「・…今の、確かにろくでなしっぽいにおいがしました……」  秀魔が桃を切り分けていくと、またまた手で端《はし》から食べていく。  まずい、と秀麗は冷や汗《あせ》を流した。早く本題に入らないとあっという間に桃が消える。 「えーと……曇樹様、何か変わったこととかございます?」 「すごい大雑把《おおぎつぱ》な問いだね。別に何もないと思うけど」                                     1ノ  秀麗はぐぐ、と《′》詰まった。本当に、蜃樹と話すといつでも頭を全開に回さなくてはならない。  十三姫、清雅の裏の仕事、暗殺……これを繋げるために、蜃樹から何をもらえばいい。  清雅には、十三姫暗殺とは別のもう一つの重要な任務がある。それはなんだ。 (清雅が唯一《軸いしlつ》、私にさせたのは、個《おゝ二り》として外にひっぱり出したこと−……)  清雅は特に熱心に十三姫を守らなかったが、兇手《さょうし軸》の情報はほしがっていた。  だから兇手�隼ーの情報を得るために秀麗を臓に外に出した。以後、音沙汰《おとさた》がやんだ。  ということは清雅の仕事の要は 「l。兇手』にあるのは確かだ。しかも十三姫の放っとき日芸口から見て、その『兇手』が関《九∵カ》わっているのは、十三姫暗殺よりも重大な件ということになる。『兇手hが関わっているなら、間違《まちが》いなく暗殺で、なおかつ対象は士二姫より重要度が高い。  秀欝は息を呑《の》んだ。……もしかして……。  そもそも基本的に御史台の任務は官吏に関係することだ。官吏に関係する、暗殺。 (……たとえば別の場所で、官吏が、同じ兇手に殺されていたとしたらー?)  清雅が本当に調べているのは、その件�?思わず蜃樹を見れば、おもちゃ箱から何が出てくるかといった顔をしている。 「……姜樹様……最近、ここひと月ふた月、地方で、結構急な感じで亡《れ》くなられた、ある程度高い位の官吏をご存じ−じゃない、ええと、亡くなられた方は何人ご存じですか?」朝廷《ちようてい》で何の噂《うわさ》もないのだから、もし当たっているとしたら被害者《ひがいしや》は地方のはずだった。しかも凄腕《すごうで》の清雅が関わるくらいなら、亡くなったのが下っ櫛《∫》官吏ということもないはずだ。  そして蜃樹は不確かな問いははぐらかして答えない。知ってる前提で問わないと逃《に》げられる。  蜃樹は指先で秀麗の顎《あご》を軽くもちあげるように触《11.》れた。まるでよくできましたと言うように。 「私の知っている巾では、五人だね」 「五人−」  秀麗の目が見開かれる。−多い。 「わかりました。ありがとうございます。�タンクソ、一緒《いつしよ》にきて」  秀麗は残りの桃をすべて切り分け、立ち上がった。  蘇芳を引っ張ってスッ飛んでいく少女に、卓樹はくすくす笑った。 「皇毅に怒られるかなt。ま、いっか」  そして皿に残った最後の桃をぺろりと食べた。  秀麗はすぐに別宴で官服に着替《きが》えながら、蘇芳に頼《たの》みごとをした。 「タンタン! 確か鴻臆寺《こうろl寸レ》に入った冗官仲間がいたわよね!?」 「うん。毎日毎日葬式《ぶ.tつしき一》の話ぽっかりで悟《さレー》りを開きそうとかって昼飯んとき話してるし」 「じゃ、ここ数ヶ月で急死した地方の高官と、その方たちに共通点があるか調べてくれる?」 「あんたは?」 「吏部に行って調べ物してくる」 「なんで吏部〜」 「亡くなる時のことは重要だけど、亡くなった後のことはそれ以上に重要かもしれないから」 「全然わからん。あとではっきりしたらまた教えて。じゃ、行ってくる」 「うん。お願い」                                                                                     J  官服に着替えた秀麗は外朝に向かって《′》突っ走る。コトが起こるのが新月だとしたら、時間はそうない。それまでに清雅と同じことを考えて、行動できるか�。  けれど、これでずっともやもやしていたわだかまりが解《し⊥》けていく気がした。 『本当にあれで大丈夫《ごい.ド)トh∴ノ�》なのか? 必要以上に警衛が穴だらけだぞしそういった劉輝の言葉が、秀麗の中でハッキリと意味を成す。 (−急死したっていう官吏たちが私の考え通りなら)  一本に繋《つな》がる。清雅が本当に 「守る」相手が誰なのかも。 (まだ間に合う−)  本命を狙《ねら》うなら、後宮を狙うのと時を同じくして狙あわは意味がない。  だから、清雅は何もせずに待っているのだ。  あと二日後にせまる、新月の夜。十三姫《けめ》と秀鹿が、桃仙宮で襲われる時を《ヽヽヽヽ11ヽヽヽヽ》。  秀麗だけではない。後宮丸ごと団だったのだ。秀麗に仕事を与《あた》えれば、必ず自分が十三姫を守ってみせると言うのを見越《み二》して。そうすれば清雅が十三姫を全面的に守らなくてすむ。実際、十《ヽ》三《ヽ》姫《ヽ》を《ヽ》守《ヽ》れ《ヽ》な《ヽ》け《ヽ》れ《ヽ》ば《ヽ》降《ヽ》格《ヽ》ど《ヽ》こ《ヽ》ろ《ヽ》か《ヽ》処《ヽ》刑《ヽ》の《ヽ》覚《ヽ》悟《ヽ》で《ヽ》臨《ヽ》め《ヽ》といったのは皇毅だ。秀麗が必死で十三姫を守らないわけがない。秀鹿が必死になればなるほど、兇手は安心する。  そうして油断させておけば、清雅はゆっくりと罠《わな》を張れる。  別の場所で。 (   −   つ)  いつだって清雅は秀麗を利用する。  利用して、解決するなら構わない。それが役に立つならいい。けれど何も知らないまま利用されて終わるのなら、この間とまるで変わっていない。  今の秀麗では、清雅を出し抜《む》くことも先んじることもできない。だからといってただ蚊帳《かや》の外にいるわけにはいかない。−この件は、秀麗と清雅の二人に任されたのだ。  もしかしたら秀麗にしかできないこともあるかもしれないから。       ・薔・巻・  清雅は御史室にて、届いた文を机案《つくえ》に放り出した。そこにはある日時と、一つの依頼《いらい》が害か  れている。今回の清雅の情報の入手元が 「彼」だったので、非常に楽だった。 「あと二日、か」  すべての手はずは整っている。いつものように、いつもの仕事をするだけだ。  このところ主人《あるじ》のいない一室を思い浮《う》かべる。時々榛蘇芳が仕事をしているが、それ以外は静かなものだ。うっすらと、清雅の唇が《ノ、ちばる》つりあがる。 「あの女は、どう出るやら」  利用されっぱなしか、それとも少しは頭を働かせるか。どちらにせよ、大勢に影響《えいきよう》はない。  ふと、自分が他の御史のことを考えている珍事《ちんじ》に気づき、おかしな気になる。同僚《ごうりよう》はおろか、引きずり下ろす相手にさえ、さしたる感情を持つことは滅多《めつた》になかったのだが。  前髪《まえがみ》をかきあげた拍子《けようし》に、腺《−》めた銀の腕輪《うでわ》がHに留まった。  障家の次期当主の証。《あかし》けれど実質的にほ自分がすでに当主のようなものだ。  この腕輪を自分が撮めるまで、遅《おそ》すぎたことはあっても早すぎたことはない。                                     ▼」−■  秀麗の真っ向から睨《l’−》み付けてくる目を思いだす。  あの目をしている限り、紅秀席を視界にいれていてもいい。もし一度でも清雅に負けを認めたら、まるで最初からいなかったように清雅の人生と記憶《きおく》から抹消《まつしよう》するだけのことだった。  そして清雅は皇毅に二日後の許可を取りに行くために、立ち上がった。       ・翁・翁・  今まで得た情報と、蘇芳が調べてくれた結果と、秀麗が吏部で調べた記録の結果をもって、すべてはまった。あとは新月の夜に起こることに秀麗なりの手はずを整えるだけだ。  まずは静蘭をとっつかまえた。  二人で話し終えたあと、静蘭がちょっと笑ったので、秀麿はムッとした。 「静蘭〜、−・笑いごとじゃないのよ。そりゃ、私の取り越《こ》し苦労《ぐろ、フ》にすぎなかったときほ遠慮《えんりよ》なく笑ってくれていいけど。今はダメ!」 「申し訳ありません。おかしいわけではなく、嬉《うれ》しくて思わず」 「嬉しい〜」静蘭は官吏の顔をした少女を見下ろした。 「…・実は今だからいえる話ですが、お嬢様《じようさま》の、末ほ宰相、《さいしよう》私が将軍というあの夢いっぱいの未来予想図、あのときは全然信じてなかったんですが」 「なんですってー!?ちょっと静蘭‖‥あのとき『叶《かな》いますよ』とか言ってたじゃないの!」 「うっ……すみません。まだスレてまして……。でも、今は信じてます」あの頃《ころ》は秀麗が官吏になれるとも思わなかったし、静蘭も将軍になるつもりなどなかった。  何より、あの大きな邸《やしき》の小さな家族のなかで、静蘭は秀麗と邵可を守って、ずっと生きていく  のだと思っていた。それが自分の幸せだと、信じていた。 「本当です。今は信じてますよ。心から」  じとっと脱む秀麗に心底謝りつつ、静蘭は言った。  静蘭が信じていなくても、秀麗が信じていたから、あの約束は息絶えなかった。  今は二人とも信じているから、きっと叶うだろう。 「なら、許してあげる」  静蘭の愛する心の広いお嬢様は、にっこり笑って許してくれた。  次に秀麗は蘇芳を連れて、牢城《ろ・リドしト寸っ》に飛んだ。  そこで秀麗は格子の向こうに世にも奇妙《二う.Llれトhl》なモノを見た。 「………・そこにいるひと、もしかして前に茶州州牧やってた人じゃーありませんっ・」 「あほt。当たり〜。この左頬《ハだりほお》の十字傷がその証拠《しようこ》」 「燕青!!何やってんのよこんなとこでー‖‥」  格子の向こうでかつての副官はぺこぺこ秀麗に謝った。 「こ、こここれにはいろいろ理由がさー」  貴陽に到着《とうちやく》して適当にぶらぶらしていたら−。 「ええっとt、破落戸《ごろつさ》にからまれてる女の人を助けて1、喧嘩《!?んか》をしてたら上そしたらー」 「語尾《ごげ》伸ばさなーい。そしたら警吏に一緒につかまってココに放り込まれたってわけ?」 「いや驚《おごろ》いたぜ。すっげ居心地《いごこち》イイ宿だよなt。清潔だしメシもちゃんと出るし獄吏《ご・、り》も親切」 「宿じゃなく牢屋〓‥あーもう燕青みたいな宿なしのために締醇《、——11�》にしたんじゃないわよ‖‥」 「やうば姫さんの仕業《しわぎ》か」秀麗が怒《しカ》り任せに鍵《かぎ》を開けると、燕青はのそっと出てきた。そしていつもの笑顔で秀麗の頭をかきまぜると、腰《——し》をつかんで高く抱きあげる。ピタピタと軽く秀鰭の頬を叩く。 「ちゃんとメシ食ってよく寝《ね》て元気にしてたかフ」 「……うん!」  秀鹿はぎゅっと燕背の首にかじりついた。燕青も抱《だ》き返し、ポソポソと背を叩《たた》く。 「どうして貴陽にいるの? まだ国試の時期じゃないでしょう」 「制誠《せいし》に行けって、追い出された。樺瑞《かい時》のじーちゃんと州官に山ほど推薦《�.いせん》状もたされて」  秀麗は目を丸くした。−制試。  それは王や尚書令の鶴《つる》の二戸で不定期に開かれる。国試と違《らが》い、いくつもの難関を突破《トろは》しなくても、貴陽で一発及第《さ沌うだい》すれば中央官吏《カ人り》に登用される特別枠《わ一1》。秀麗のl時と似ているが、例外措《そ》置《おり》でなくれっきとした正試験だ。それを受けるには大官や大量族の推薦状が必要だが−。 「開催《かいさい》されるの!?」 「みたいだな。……ま、それだけじゃねーみてぇだけど」  後半は口中で呟《つバや》く。樺輪はとりあえず燕青を悠舜《ゆうし抽人》や秀鹿の傍に置くために、紫州に向かわせた節《ふし》がある。信頼《しん∴∵い》できる駒《こょ》が少ないのか。それとも、何かが起こりかけているのか−。  燕青はふと、しゃがみこんでじうと二人を見上げている蘇芳に気づいて、笑った。 「鵬さんの酢配か? 楽Ltだろ?もれなくおっかねぇ酎監訂酎いてくるけどな」 「…・やー、あの家人はこの頃《ごろ》ついてこなくなった。それにしてもなんか凄《すご》い相思相愛だね」これだけべ夕べタしているのに全然下心を感じさせないカラッとした燕青に、蘇芳は呆《あき》れた。  道理で秀麗があれだけ男に対して無防備になるわけだ。 「ふっふ。まーな! 秘訣《ひけつ》は静蘭に何度姫さんとの縁《えÅ》をぶった切られても結び直す根性だな」蘇芳は羨《う・りや》ましい、と思った。自分など何度緑を切ろうとしても、とっ捕《つか》まってきたのに。  燕青は秀膳を見上げた。いい顔つきになった。肩《かた》の力もちゃんと抜《ぬ》けている。  何が起こっているかは知らないが、秀麗がこんな顔をしているということは。 「さーて姫さん、俺にできることは?」  秀麗は顔つきを引き締《し》めた。  韓後に秀麗は十三姫に会いに行った。 「−十三姫」 「ふっ……わかってるわ。膝《ひぎ》を詰《つ》めて話をしようっていうのね」 「そのとおり。むだにカッコつけてないで、さ、椅子《いす》から下りて前に座ってください」  十三姫の室は、すでに人払《けとば・り》いがされてあった。秀麗が来ることを見越していたらしい。  十三姫はチラッと上目遣《うわめづか》いで秀麿を見た。 「……逃《に》げちやダメ?」 「ダメダメ。可愛《かわい》らしくしてもダメです」 「ちぇっ。そーよねー」  がLがLと椅麗な黒髪《くろかみ》をかきまぜる。時々彼女は秀腰より男らしい言動をする。  覚悟を決めたのか、十三姫は本当に真向かいぴったりに膝を詰めてきた。膝と膝が指一本くらいしか離《はな》れていない。……秀麗は思わずのけぞった。説教でもこんなに近くない。 「……ち、近すぎない?」 「だって膝詰めでしょフ」  ものすごく真面目に言っているらしい。  言葉をまんま受けとるところは、ちょっと劉輝に似ていると秀麗は思った。 「それに近い方が聞かれにくいし。……。…………」  十三姫は黙《だま》った。秀麗は待った。話してくれる気があるなら、せかす必要はない。  どう話そうか迷うそぶりをみせてから、十三姫はポッッと口火を切った。 「……濃《こ》い肌《はだ》と、隻眼《せきがん》の男の話よね?」 「ほい」 「えー……後で話すっていうのはー……どうでしょうか」  十三姫は居心地が悪そうに身じろぎした。微妙《げみよう》な敬語でそわそわしている。普通《ふつう》なら可愛いと思ったかもしれないが、今の秀麗は呆気《あつけ》にとられた。なんだそれは。 「十三姫!」 「逃げてるわ冊じゃ持て! んーと……ちょ、ちょっと待って。もっとうまく説明するから」本当に頭を抱えて懐悩している。ややあってぼそぼそと話を再開した。 「……んとね、私が藍州から紫州に入った辺りで、まあ、ちょっと襲《おそ》われたわけよ。何事もなく無傷で貴陽までこれたんだけど……気になったのよね」 「何がです?」 「兇手の闘《きl上うし�たたか》い方に、覚えがあったの。んと……確かあなた、武芸とかサッバリよね?」 「兵法書《へいはうしよ》なら色々読破してますが」 「素敵《す一しき》! ぜひ今度語り合いましょう!」十三姫は馬と同じくらい眼をキラキラさせてガシッと秀犀の卓を両手でつかんだ。  馬と兵法に興味を示す姫。……秀麗もなんとなくわかりかけてきた。 (……も、もしかして十三姫の育った家って……)  十三姫は我に返り、また尻《しhり》の据《・丁》わりが悪そうにもぞもぞ動いた。 「じゃなくて……実戦の闘い方って、家とか流派によって結構癖《′1せ》が出るのよ。わかる人が手合わせすれば、ピソとくるっていうか。で、ピソときちやつた、のよねー……」尻すぼみの語尾《ごび》になる。秀麗も考え……ギクリとした。  十三姫と楸瑛があの隼という兇手と知り合いらしいことは察せられたが、もしかして、秀麗の思っていた以上に深い繋《つな》がりがあるのかもしれない。  だからこそ、あれほど清雅に言わないでくれと、口止めしたのだ。  それは、多分、御史台に藍家の弱みを握《にぎ》られることになるから。  十三姫はこめかみに手を当てた。 「……でも、わかった気がするのよね……」 「何がです?」 「三見様が、どうしてたくさんの異母妹から『私』を選んだのか」  ぎゅっと目をつぶる。 「三見様はね、いつ重一番良い方法を考えてるわけよ。誰がどんな風に選択《せんた1ヽ》しても損にならない道と、藍家の首を絞《し》めない道を。その上で布石を打ってるの。だから、間違《まらが》いなく、『私』を後宮へ送ったことと、『今』っていう時期にも何らかの思惑《おもわく》があると思うのよね」 「? 待って。よくわかりません」 「えっと、藍家は別に王に敵対してはいないわけ。敵だと判断すれば完膚《かんぶ》無きまでにめちゃめちゃ叩き潰《つぶ》すけど、こういう宙ぶらりんで忘れた頃にポソと打ってきた手ってねぇ……たいてい、なんていうの、ホラ、国試に楸瑛見様と龍蓮見様を送りこんできたときと同じで」 「……劉輝の器《うつわ》をはかってるってことですか〜」 「多分。この状況《じようきよう》で、王様がどんな判断をして、どう動くのかを見たいのよ。三見様は撒瑛見様をいちばん可愛がってるから、本気で家に帰らせるつもりでいる。でもね、王様の器も計る機会にするっていうなら、性格上、一本だけ逃げ道を用意しておくはずなの。だって全部の道を塞《ふさ》いじやつたら、器を計るも何もないでしょ? 王がそのたった一本の道を見つけられなかったらそれで終わり。三見様たちはその程度かって思うだけ。でも見つけたらー」秀麗は息を呑《の》んだ。十三姫は注意深く言を継《つ》ぐ。 「……ここまでするからには、楸瑛見様や龍蓮見様を送ったときみたいな様子見じゃないわ。最大限、王を試《ため》すつもりでいる。だったら、見様たちが用意する器の大きさもめいっぱいじゃないと意味がないわ。どれだけたくさん器に入れて持って帰れるかは、王次第。逆に言えば、何もかもすべて詰められる道もあるってこと」 「……藍将軍も詰められるってこと……?」 「……そこまではわからないわ。第一、楸瑛見様の性格を考えると……」もともと楸瑛がいちばん藍家の男らしくない性格なのだ。  生粋《jつすい》の藍家の男なら、うっかり雰囲気《ふんいき》に流されようが、絶対王に忠誠なんか誓《ちか》わない。どんなときも藍家側につけるようにのらりくらりと逃げる。そう叩き込まれているはずなのだ。だから先王にも別に藍家は忠誠を誓わなかったし、歴代でも滅多《めった》にいない。  鰍喋はその滅多にいない変わり種なのだ。どこまでも気骨があり、自分を律するのも人一倍強い。確固たる信念があり、どんな時もそれを自ら破ることをよしとしない。こうと決めたら、どこまでもそれを貫《つらぬ》き通す。  ……そう、楸瑛は間違いなく、今の藍本家で唯一《ゆいいつ》、真実忠誠を誓える男なのだ《ヽヽヽヽ1ヽヽ1ヽヽヽヽ》。真実王を認めたなら、兄であろうと藍家であろうと、すべてを掛っ《なげう》て王の許《もと》に馳《は》せ参じてしまえる。  だからこそ、三つ子の兄は十三姫という駒《こま》を送り、本当に王に忠誠を守っているのかを突《つ》きつけた。楸瑛の性格だ。一度�花″を返上したとなれば、もう何があろうと、たとえ王が脆《ひぎまず》いて懇願《こんがん》しょうが、楸瑛が二度受けとることは決してないだろう。  そして楸瑛はもう、ほとんど心を決めている。 「……三見様の打つ手は、意味があるわ。『私』を、『この時期hに『後宮トに送ったこともそうだし、『何もかもうまくいく方法帖の歯車には、私も組み込まれてる。勿論《L■りら・人》あなたも」 「私!?」 「そうよ。あなたに似てるように饅頭《まんじゆう》作りまで習わされたのよ。どう考えたってかなりの中心にいるわ。……で、脇道《わさみら》に逸《そ》れて説明してきたけど」 「……本題なんでしたっけ?」 「謎《なぞ》の男の話を言うか言わないかでしょ。膝詰め七」 「そうでした」さすがに秀鹿も反省した。 「後で話せないかっていったのはね、それが『良い遺』に繋がる気がしたから」  十三姫はカリカリと頬《ほお》をかいた。 「……私はね、いーのよ。ちゃんと納得《なつとく》してきたし、嫌々《いやいや》きたわけでなし。何があろうが図太く生きられる自信もあるわ。本家の楸瑛見様と違《ちが》って藍家にしがらみも少ない。……でも、楸瑛見様は違う。ホケホケしてたらいきなり大波に呑まれて挟《も》まれて、これからビーしよう状態じゃない。久々に会ったら、思いの外グダグダ悩《なや》ん……じゃない、すごい落ち込んでたから」 「十三姫……」 「できればね、良い道をみつけてあげたいわ。それはきっと、見様にとっても良い道だと思うから。……なんだかんだいって付き合いも長いし深いし、あのなんでも完璧《か人.べき》にできるぜオレ・装ってて実はうっかり田吾作《たごさく》加減が好きなのよね」素直《すなお》に兄妹愛に感動していいのか悩むことを言う姫である。  十三姫はうつむいて、ボソボソ続けた。 「『私』が『今』選ばれたのは、その隻眼の男の件が関係しているからだと思うわ。なんていうかできすぎだもの。それは多分、私と……楸瑛見様のための歯車だから。もう少しだけ、任せて欲しいの。もちろん、こんなんじゃ全然理由になってないと思うわ。超不審《ちよ・? 小しん》な謎の馬鹿《ぼか》を追っかけなくちゃならないのは、あなたに課せられたお仕事だもの」秀麿はしばらく黙った。  溜息《ためいき》をつくと、十三姫がビクッと身じろぎした。びびらせてしまっていたらしい。 「…・全部終わったら、ちゃんと話してくれますか?」 「約束するわ」 「わかりました。二日後、新月の後宮はあなたにお任せします」 「もちろん」 「……藍将軍もくるんですよね?」 「うーん。多分。いずこともなく現れていずこともなく帰るんじゃないかしら」 「馬のように?」 「馬よりは遅《おそ》いと思うわ。鈍馬《どんば》のようにって感じかしらねー……まだ種馬にもなれてないし」 「…・それ、酒落《しやーl》になってないからやめたはうが……」そして秀麗はもう一度確認《カくにん》した。 「十三姫、後宮に入るようにいってくれたのって、兵部侍郎なんですよね?」 「ええ」 「……ダメモトで訊《き》きますが、道中弱い兇手をとっつかまえたことって、ありました?」 「あるわよ。最初すごいなめられてたみたいだから」 「え! やった。じゃ、ちょっと確認したいんですが、その兇手の額に−」  秀寮があることを訊くと、十三姫は領《うなず》いた。 「そういえばあったわね。全員じゃなかったけど、何人か」  その情報に、秀麗はぐっと拳を《こぶし》握りしめた。  これで残っていた推測も、確証に代わった−。  胃恵与千真実と刷れと桃仙宮の一室で、早寝《はやね》早起き、馬で散歩するのが好きなその姫《ひめ》は、いつものように早い時間                       ・J   ゝにぐっすり寝《オ》入《l_》っていた。  ここ数日、ずっと監視《かんし》していた日常とまったく同じ�ではなかった。  もう一人、いつも夜更《よふ》けまで書きものをしている姫がどこにもいない。  兇手《きようしゆ》たちは、まったくやすやすと桃仙宮に忍《しの》び込むことができたが、それには戸惑《とまど》った。  しかし、とりあえずこの姫を殺せばいいはずだ−守《ヽ》る《ヽ》よ《ヽ》う《ヽ》に《ヽ》い《ヽ》わ《ヽ》れ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》る《ヽ》の《ヽ》は《ヽ》襲《ヽ》撃《ヽ》時《ヽ》間《ヽ》だ《ヽ》け《ヽ》だ《ヽ》。今までは命令もあってこちらも様子見半分なおざりに手を出していただけだったが、つつこうとすれば必ず羽林軍の武官などの邪魔が入った。徹底した毒味といい、あの女官吏も人任せにせず、自分なりに最低限の守りを敷いているのは計算外で、少々面倒だった。  とはいえしょせん小娘。気がゆるむ時もあれば穴もある。今日の警護はひときわ厳しく見えるが、数に頼んだのが間違いだ。赤子の首を捻《ひね》るように始末できると彼らは思っていた。   −その時まで。  十三姫の布団《ふとん》がはねとんだ。 「——甘いわ」  十三姫の手から肩《かた》を狙《ねら》って続けざまに飛刀《ひとう》が飛ぶ。思わぬ負傷にひるんだ隙《すき》を狙い、剣《けん》よりほ短く、短刀より長い刀剣《とうけん》を鞘《きや》から抜《ぬ》き払《は・り》う。両手に一口《ひとふり》ずつの二刀流。柄《つか》に仕込んだ目つぶし粉で相手の視界を奪うと、武器を弾き飛ばし、体重を乗せて鳩尾《みぞおち》に柄を叩き込む。さらにだめ押しに膝も打ち込んでおく。もとより十三姫の力は男にも負けない。  三人をあっというまに叩《たた》きのめすと、手際《てぎわ》よく縛《しぼ》りあげる。 「……とてもあいつが指揮を執《トー》っているとは思えないわね……」  訝し《いぷか》げに眉根《ま紬山》を寄せて、髪《かみ》をかきあげる。 「…・でも、何らかの形でこの兇手たちに関《カカ》わっているのなら、あいつはここにきっとくる」  十三姫は兇手を見下ろした。そのために、彼らを生け捕《けJ》ったのだ。 (あいつは、生きてる配下を見捨てる男じゃないわ。……私の知っている男と同じなら)  十三姫は秀麗に言われていたことを思いだし、ごそごそと兇手の額をまさぐってみた。  全員額には黒い布をまいている。それを鮒《圭》がし、十三姫は呟《つぷや》いた。 「……やっぱり」  悠舜は今日も今日とて、夜更けにもかかわらず尚書令室で仕事をしていた。  ふと、資料が足らず、立ち上がったときだった。うしろから短刀がつきつけられた。  無言のうちに悠舜の首をかっきろうとした短刀は、そのままぽとりと悠舜の足下《あしもと》に落ちた。 「大丈夫《だいじようぷ》ですか、悠舜殿」 「はい。ありがとうございます、静蘭殿」  悠舜は無事な首を撫《な》でさすった。殺されかけたとは思えないほど呑気《の人き》な笑顔《えがお》だった。  後ろを向けば、静蘭に絞《し》め技を決められて落《ヽ》ち《ヽ》た《ヽ》兇手が一人転がっている。 「いいえ。私は王にあなたの専従護衛官にと命じられましたからね。あなたがいらないと追い払っても、陰《かげ》ながらいつでもどこでもお守りいたします。そういうのは得意ですから」 「得……深くは追及《ついき博う》いたしませんが。……けれど、成長いたしましたね、静蘭殿」  悠舜ほにっこりと笑った。いつも秀麗を真っ先に気にかけていた青年とは思えない。幼いころ、黎深と奇人《きじ人》と一緒《いつしょ》に印可邸に遊びに行ったときの、あの無表情な少年とも。  静蘭はわざとらしい咳払《せきげ・り》いをして、ごまかした。  ちらりと、静蘭は窓の外に視線をやったが、すぐに外した。  かつて茶家に狙われまくっていた悠舜は、その意味を察した。 「……兇手がフ」 「連絡役《ーlんらくやて》です。多分、悠舜殿を狙ったのはFついで帖だったんですよ」 「……『ついで竿で狙われる宰相《さいしよう》というのも情けないものですね……」  静蘭はすぐに椅子《l�了》を引いて座らせた。 「まあ、私があんまりにも姿を見せずにお守りしていたので、向こうも薄気味《うすきみ》悪くなったんじやないですか。今のところは専従護衛官が誰か、つついてさぐるくらいの腹だと思います。誰かわからないと、対策の立てようもないですからね。そのくらいのぬるい覚悟《かくご》でないと、一国の宰相を暗殺するのに兇手一人だけなんてなめきってますよ」今のところは、ということはつまり、いつかは本格的に送りこまれてくるということだった。  けれどそんなことは任官当初からわかりきっていたことだったので、悠舜も静蘭もそれには触《lト》れなかった。いつかくるとしても、それはまだ少し先の話だ。 「私に今日のことを注進してくださったのはお嬢様《−じよーツhさ盆》ですよ、悠舜殿」  悠舜はにこっと笑った。 「……秀麗殿も、よく私のことまで気を回すことができたものです。……多分、陸御史はわざと私のところは放っておいたのだと思います。秀麗殿が気づくか気づかないか、軽く試すために。気づかなくても、私には謎《なぞ》の凄腕《寸ごうで》護衛がいることくらいは把握《はあく》しているでしょうから、本当に暗殺される心配はない。障御史の手落ちにはならずに済む、と」 「どこまでも馬鹿忙しくきってますね。まったく何様ですかあの生意気さ加減は」 「ですが、抜きんでた能吏《のうり》です。……きっとあがってくるでしょう」 「その時はお嬢様も上がってきますからご安心下さい」ふと、子供の悪戯《いたずら》が成功したような顔で、悠舜は笑った。 「そうそう。もうすぐ、茶州から例のタダ飯食らいの男が到着《とうちや′1》するそうですよ」  げっと嫌《いや》そうな顔をした静蘭を見ながら、悠舜は首を捻った。 「……というか、もうとっくに着いていておかしくないんですけれどね」       ・畿・翁・  清雅は待っていた。  兇手もそうだが、あの女がここにくるかどうかも、軽く楽しみではあった。 (鄭尚書令のところもちゃんと拾ってこいよ)  仕事を楽しむという感覚はごく久々で、こればかりは秀麗に礼をいいたいくらいだ。  ……カタ、と微《かす》かな音が響《ひぴ》いた。清雅は閉じていた目を、ゆっくりと開いた。  �きた。 「松明《たいまつ》を」  ごく短く、御史台直属の精鋭《せいえい》武官たちに命じた。  一斉《いつせい》に松明に火が灯《とも》る。 「下がっていてください。孟兵部侍郎」  清雅と武官のうしろで、兵部侍即が震《ふる》えながらも落ち着いて頚く。 「孟侍即の口を塞《ふさ》ぎにきたか」 「当たり」  たった一人で、清雅が縦横無尽《じゆうおうむじん》に兵部侍即の邸内《ていない》に配してきた警護兵に気付かれずにこの室  まで乗り込んできた男の顔が照らされる。  浅黒い肌《ほだ》、隻眼《せきが人》と口許《くら一じし」》が笑っていても、どこか翳《⊥り.げ》の惨《にじ》む野性的な男。 (近々会えるだろうと思っていたが、こういう顔をしていたのか)  シッポをつかまえようとしても、清雅には何一つ情報を残さなかった男だ。  孟侍郎が初めて動揺《どうよう》したように息を呑《の》んだ。急にガタガタ震え始める。  清雅も隻眼の男も、それに気付いたが知らないフリをした。 「兵法《へいほう》にのっとったイイ配置してるな。お前、叩師の才能あるぜ」 「それはどうも。兇手に楽々抜かれるようじゃ、俺もまだまだだな」 「要勉強しとけよ。さて�」  隻眼の男がゆっくりと孟侍即に視線を注ぐ。孟侍即がひっと息を呑んで後ずさる。  男が一歩蹄み出す。  清雅が男の背後にある窓に視線を巡《めぐ》らした。外から漬接侵入《しんに時う》できるのはあの窓だけだ。いくら腕《うで》に覚えがあっても、本当に有能な指揮官なら決して一人ではこない−。 「警護を固めろ! もう一人いるはずだ。あいつの背後からくるぞ〓‥」  ふわり、とやけに細い人影《ひとかげ》が間をまとって、tl=fを舞《よ》った。  飛びこんできたかと思うと、その人影は日にも留まらぬ速さで、武官たちに次々襲《おそ》いかかる。  円形の一風変わった武器を使う。舞うような変則的な動きで縦横無尽に斬《き》りかかってくる。  しかも、顔を隠《かく》すようにその細身の人影は狐《きつね》の面をしていた。  清雅は剣を抜くと、腰《こし》を抜かして震えている兵部侍即のもとに後退した。  合図の笛を鳴らそうとして、一つの可能性に躊躇《ちゆうちよ》する。 『兵法にのっとったイイ配置−』  全部見て回った上でここまできたなら、もしかしなくても、外の警護兵はもう使い物にならないかもしれない。もしあの隻眼の男が清雅の推察通りの出自ならば、軍略においては一枚も二枚も上手だ。それでも対応できる最善の策を敷《し》いなっもりだったがーやはり甘かったかもしれない。それでも邸《やしさ》の外まで聞こえるように高く吹き鳴らし、つづけざまに叫《きけ》んだ。  あの細い人影は攪乱《かくらん》のためだけにきているはずだ。 「隻眼の男に狙いを絞《しぼ》れ!」  けれど大半があの舞《まい》のように襲いかかる狐画の人物に翻弄《ほんろう》されている。清雅の見る限り羽林軍将軍並みの凄腕だ。隻眼の男はといえば、避《よ》けるだけで風のように近づいてくる。  まだ警護兵の応接《おうえん》はこない。やはりやられてしまったのかもしれない。  T——まずい)  人数が足りない。精鋭をそろえているためまだ保《ょむ》っているが、このままでは仕留められる。  次々と武官が倒《たお》れていく。隻眼の男が清雅に迫《せま》る。  剣を構え、兵部侍郎を後ろにかばって相対する。 「まだ孟侍郎を殺させるわけにほいかないんでね」 「まだ?そうか、お前−」  男がふっと足を止めた。  しかし、その上を飛び越《こ》えるようにして、狐面の人影が清雅に襲いかかった。男が止める間もなかった。  その瞬間、《しぬんかん》清雅から見て右方向にあった室内用の扉が弾《とげらはじ》け飛ぶような勢いで開いた。  広い室《へや》だったので、だいぶ距離《きよ!?》はあった。  素晴《す∫》らしい速度で箭《や》が飛来する。薄暗《うすぐら》く火影《はかげ》に揺《佃》れる室内の中で、清雅に飛びかかった相手の動きを正確に読んで狙《山・り》いが定められたそれは、飛んでいる鷹《たか》さえ射落とせるほどの腕だった。  隼はその場の状況《ド)上てツ養−よ、ソ》も忘れて思わず口笛を吹いてしまった。武官たちが倒れたせいで確かに人数は少なくなっていたが、それでもこの中で放つとは、よほど腕に自信がないと不可能だ。  寸前で叩《たた》き落とした狐面の主は、動きが鈍《こ川い》り、後ろに何歩かたたらを踏む。  その際《すき》に扉から十人くらいの武官が飛びこんでくる。その中の一人には清雅にも覚えがあった。まだうっすらそばかすの残る、少年めいた青年。確か皐韓升−。  皐韓升は剣《りん》を抜《ぬ》く。狐面の人影に狙いを絞って仕掛《しか》けにかかる。  つづいて秀麗が飛び込んできた。 「−清雅−!!死んでる!?」 「……イイ度胸だなお前」 「あらごめんなさいうっかり本音が」 「余裕《ょゆう》こいてる場合かよ」 「余裕よ。−燕育!!」 「はいはい」  軽い足取りで清雅と隻眼の男の間に割って入った燕青は、隻眼の男と相対し、眉根《まゆね》を寄せた。  強い。かなり強い。あの舞のような動きをする兇手《きようしゆ》なら余力を残して戦えるが、この隻眼の男は半端《はんば》じゃない。燕青が今までぶちのめしてきた相手の中でも、間違《まちが》いなく群を抜いて強い。   −全力でやって五分。  相手もそう判断したらしい。片目しかない絆を面白《ひとみおもしろ》くきちめかせる。 「時間があったら、心ゆくまでやりあいたかったが−仕方ないな。時間切れだ。まだ行くところがあるんでね。−ま、役目は半分果たせたかな」                                                                                                                                                                     ヽノちらりと、体を丸めて震えている孟兵部侍郎に視線を投げ、後ろに軽く飛び退《ク》く。皐韓升たちと互角《ごかく》に斬り結んでいる狐面の人物を引きはがし�一緒《いつしよ》に窓から闇へ消えた。  皐韓升が肩《かた》で息をしながら剣をおろした。ぐっしょりと汗《あせ》がしたたる。  ごく短時間だったのに、これほど神経を消耗《しようもう》したのは初めてだった。圧倒的《あつとうてき》な人数差だったのにもかかわらず、勝てると思えなかった。死なないので精一杯《せしlいつぱい》彗−格が違《ちが》う。  皐韓升と燕青が構えを解いたのを見て、清雅はようやく秀麗を掛《ヽヽ’》り返った。 「……いつきた?」 「あんたのあと、すぐ」 「邸内の警護兵はどうした」 「のびてたり眠《ねむ》らされたり縛《しば》られてたり。殺されてはいなかったから、そのままにしてあるわ。あんた一人でなんとかできそうなら引き返すつもりだったけど、笛の音が聞こえたから」 「どうして兵部侍即の邸だとわかった?」  清雅は答えがわかっていたが、震えている孟《ヽ》兵《ヽ》部《ヽ》侍《ヽ》即《ヽ》に《ヽ》も《ヽ》聞《ヽ》か《ヽ》せ《ヽ》る《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》に《ヽ》あえて訊いた。 「十三姫《ひめ》を後宮で匿《かくま》うように指示したのは、兵部侍郎だったのよね」 「ああ」 「ある二人の人物がね、それぞれこういったの。『警護が穴だらけすぎるしって」  十三姫が最初に桃仙宮の前で頭を抱《九ん》え込んで言ったことも、劉輝が眉《まゆ》を撃《けそ》めて言ったのも、同じ。必《ヽ》要《ヽ》以《ヽ》上《ヽ》に《ヽ》警護が穴だらけすぎる−。今日も人数だけはやけに多く配置してくれたが、十三姫によればザルらしい。大丈夫だから行ってちょうだいと言われて出てきたがー。 「油断を誘《弐こヤ》うにしても、守れなかったら意味がないわ。そのゆるすぎる警護を指揮していたのは兵部だった。調べてみたら正確には、兵部侍郎」倒れている武官に命に別状がないか調べていた燕青が顔を上げた。 「……つてことは、自分で守るっつっといて、わざと穴だらけの警護にしておいて、殺しやすいようにして兇手を誘いこんだってことか」びくっと、兵部侍郎が震えた。清雅は答えなかったが、それが答えでもあった。 「ち、ちが……私はそんなこと……」  皐韓升は首を傾《かし》げた。 「……でも、どうしてそんなことを?」 「兵部侍郎には年頃《としごろ》の娘《む寸め》さんがいるのよ」  秀麗は眉間《ふHん》に敏《Lわ》を寄せた。桃仙宮の穴だらけの警衛を指揮していたのが兵部侍即とわかってから、彼のことを徹底的《てつていてき》に調べてみた。 「あなたは、自分の娘を後宮に入れたかった。王が妃を一人枠《さささ.n∵ヒn∵わく》にするとか言い出さなかったら、別に十三姫を殺すつもりはなかった。あとに入っても寵愛《らようあい》を受ける姫はたくさんいるもの。でも、一人ならもう余地はない。一人枠を争うにしても、藍家の姫が相手では勝ち目がない。だから、配下の兇手を使って、十三姫暗殺を企《た・、・り》んだ」秀麗は自分の頭を整理するようにゆっくりしゃべった。 「十三姫は紫州に入ってから襲われるようになったっていっていたわ。藍州内では藍一族の目があるから無理でも、紫州に入ってしまえばなんとかなる。しかも兵部侍郎。十三姫護衛のためとか何とかいって、通達を出して�双龍蓮泉″《そうり接うれんせん》の通行手形をもつ少女がいつどこの関塞《せきしよ》を通ったか、どんな外見だったかのl情報を手に入れても、あまり不自然にほ思われない。清雅のことだから、多分すでに各開基に手を回して裏をとってると思うけど、関塞の情報をもって 「十三姫が暗殺される情報がある』とかってぬけぬけと御史台に言いにきたのかも。で、なんとか貴陽に来るまでに暗殺しょうとしたけれど、十三姫は無事貴陽まできてしまった−」 「なんで貨陽までなんだ?」葵皇毅を知らない燕背は首を傾げた。 「貴陽にきた十三姫は当然『道中誰かに襲《おモ》われました』っていうでしょ? なら下手人は、普《・.1》通《つう》に考えて十三姫に後宮に入って欲しくない貴族か官吏だと目される。官吏の可能性があるなら、御史台長官葵皇毅が指揮を執《と》る。……まあなんていうか、脱《にら》まれただけでやってもいないことを白状して謝りたくなるよーな人なのよ……」燕青は内心やベtと思った。茶州で食い逃《に》げしていたことを言ってしまうかも。  皐韓升はさらに首を捻《ひね》った。 「…・でも、どうして、いま、兵部侍郎が手下の兇手に狙われたんです?」 「そうすれば被害者《けがいしや》ぶれるでしょ? 狙われる理由も、『十三姫警護を指揮していた自分が目《め》障《ぎわ》りで殺されそうになったLっていえる。で、十三姫殺しと一緒に自分もあえて配下の兇手に襲わせる。もちろんわざと失敗して逃げるように配下には言い含《・でヽ》めて、清雅を証人役にしようと護衛を頼《たの》んだってとこじゃないかしら。だからさっきもすぐ逃げちゃったでしょう?」そのとき、清雅の目がキラリと輝《かがや》いたことに秀麗は気づかなかった。 「でも、それだけじゃ清雅の仕事らしくない」 「へえ? じゃ、なんだ?」 「たとえばその兇手が、十三姫暗殺だけじゃなくて、別な暗殺もやっていたら?」  秀麗は丸くなって震《ふる》えている兵部侍郎を見た。 「このところ、地方で何人か、ちょっとおかしな死に方をしている官吏のことを調べてもらったけれど、亡《な》くなった彼らに、共通点は何もなかった。武官も文官もいたし」  大きく兵部侍郎が震えた。清雅はやはり答えなかった。 「でも、問《ヽ》題《ヽ》は《ヽ》そ《ヽ》の《ヽ》あ《ヽ》と《ヽ》。吏部で調べたら、急死した官吏の次の任官はやけに早く決まっていたの。そうして赴任《ふにん》してきた新官吏たちには一つの共通点があった。それが−」秀麗は丸くなっている兵部侍即を見た。                     ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ 「みんな孟兵部侍郎とゆかりのある人たちだったってこと」  さすがの燕青も日を丸くした。 「……つてことは、なんだ。もしかしてこのおっちゃん、さっきの兇手を使って官吏殺しまでやってたってことか? で、その後釜《あとがま》に自分のお気に入りの官吏を配属させてたと」びくっとひときわ大きく兵部侍即が震えた。 「ち、ちが……私はそんなこと……」 「でもそりゃあからさまにあやしーよなー」  秀麗も苦笑いした。−そのとおりだ。 「清雅は、孟侍即を守りにきたんじゃないのよ。十三姫暗殺と官吏殺しの下手人をひっとらえにきたわけ。万一死なれちや困るから、守ったのよ」 「…・そのとおりだな」清雅はやけに素直《すなお》に認めた。  秀麗はそのときはじめて、妙な違和感《みよういわかん》を覚えた。何か、おかしい。 (待ってー確かに)  殺されるフリにしてほ、やりすぎていないか。邸《やしき》に配置された武官はみんな本当に潰《つぷ》されていた。抜《ぬ》け道とか用意しておけばいい話だ。清雅だって、ものすごく必死に応戦していた。 (え�何か、見落としてることが、ある�?)  清雅が隠《かく》している、もう一つの真実。 「十三姫とそこの女官吏は本気で暗殺して構わないといわれたんだ‖‥そうすれば官吏殺しの件は帳消しにしてやると! なのに−!」  真部侍即が叫《レ.−!?》んだ。  その瞬間、《L紬んかん》兵部侍即がぐらりと前のめりに倒《たお》れた。  燕背がぎょっとして仰向《あおむ》けに転がすと、青黒い顔をしてすでに事切れていた。  調べると、首筋に細い細い針が刺《竜−》さっていた。 「吹《l�J》き矢�俺がくる前に、あのどっちかの兇手にやられたんだな。時間差できく薬か」  清雅は舌打ちした。あの混乱の最中か。  秀麗は最後の兵部侍郎の言葉に戦傑《せんりつ》した。 (十三姫と私は本気で暗殺して構わない−?)  行くところがある、と言った隼−。 「燕青‖‥一緒《いつしよ》に後宮にきて‖‥清雅は牢城《ろうじよう》に行って! お願い!」 「牢城だと?」  清雅の眉が寄った。 「ちょっと考えたことがあって、そっちにも手配しておいたの。タソタンに頼んで行ってもらってるから! これで貸し借りなしね!!」  言うだけ言うと、秀麗は燕青を引っ張って後宮へ駆《か》けた。       ・翰・番・  桃仙宮の一番広い一室で、十三姫は静かに時を待っていた。  今、この桃仙宮にいるのは、縛りあげた兇手《き上でりし紬》たちと十三姫だけだった。  かた、と誰かが入ってくる足音がする。十三姫はちょっと泣きそうに笑った。 「……楸瑛見様。遅《おそ》いわよ」 「裏打ちは最後だろ。……ちょっと、人を捜《さが》しててね」 「王様なら、何があってもこないでっていってあるわよ」  轍環はちょっと笑った。……捜していたのは王ではなかったのだが、十三姫の心遣《こころづか》いが嬉《うれ》しかったから、軽く領《うなず》くだけにした。  十三姫の傍《そぼ》に座り、頭を撫《な》でる。  そうして、無言のままただ待って−。  最跡に轍嘆が、次に十三姫が、気づいた。  二人が、ゆっくりと武器をとる。  陽炎《かげろう》のように音もなく現れたのは、褐色の肌《かつしよくはだ》と、隻眼の目、どこか物憂《ものう》げな翳《かげ》のある青年。  彼は、二人の姿を見て、やっぱりいたか、というような笑《え》みを浮《tワ》かべた。 「  」  予想していたとはいえ、楸瑛は−本当に言葉を失った。息の仕方を忘れた。  そして十三姫はーあえぐように何回か言葉にならない声を出し、叫んだ。 「−迅《じん》!?」  隻眼の男は、片方だけの目を、僅《わず》かに伏せた。 「違《らが》う。隼、だ」 「ふざけんじゃないわよド畜生‖《おり・、しよう・》‥」  隼は目をバチクリさせた。……そうだ。椅麗《さおい》なとこばかり覚えていて、忘れていた。  怒《おこ》ったときの口の悪さは天下二品だった。 「こんなとこで何してやがんのよっっ! なんであんたが釆んのよ〓‥−どうしてあんたがこんなとこにいんのよ〓‥」  隼は微《かす》かに笑みを浮かべた。 「……わかってるから、待ってたんだろ? 螢」《はたる》十三姫の腰《●−し》がくだけた。ただ一人−十三姫をその名で呼ぶ男。 『名前がつまんねぇ?じゃあオレがつけてやる。螢みてぇな女だから、螢でいtだろ』  たった一人、十三姫が愛した男だけ。  十三姫の顔が歪《博が》んだ。ボタボタと大粒《おおつぶ》の涙が《なみだ》こぼれた。それでも必死で叫んだ。 「ふざけんじゃないわよこのすっとこどっこい〓‥ノコノコ出てくるにしても、もちっとマシな登場の仕方ほなかったの!?」 「たとえば?」 「馬商人とか」 「バカか螢。大抵《たいてい》の馬商人は詐欺師《きぎし》だろが。お前よくぼったくられて俺が値切り交渉《こうしよう》してたろ」 「昔のことは忘れたわ。あんたにぴったりじゃないの。兇手として出てくるよりマシよ〓‥」聞いていた楸瑛ほ頬《ほお》を引きつらせた。……そういえばこんな二人だった。 「俺はもう司馬家《しばけ》の人間じゃない。司馬迅は死んだんだ。もうどこにもいない」  十三姫は歯を食いしばった。何か言おうとしても、何も出てこなかった。  楸瑛は立ち上がった。かつての親友を、見据《みす》える。 「−違《ちが》うな、迅」 「何が違う?」 「お前もわかってるはずだ。お前は司馬家の人間だ。−兄たちはそう思ってる。だからお前が貴陽にきているこの時期に、妹を選んで後宮へ寄こした」 「いい王様だよな。螢を嫁《よめ》にとるって聞いて何回か見に行ったが。気配に気づいたくせに、殺気がないからって放っておかれてな。幸せになれると思うぜ。螢も�お前も」豊かで低いその声でゆったりと話すときは、迅が何かを確信しているときだった。  鰍嘆の目が見開かれる。心に震えが走った。   −昔から、何も言わなくても楸瑛のことをいちばんよくわかっている男だった。  迅は知っている。今の楸瑛が何を望んでいるか。 「……だから、秀應殿の_しろへ行ったのか」 「螢と同じくらい元気で賢《カしこ》いお嬢《じよう》ちゃんだよな」 「迅。藍門筆頭司馬家の、かつての総領息子が、官吏殺しの兇手の頭領だと知られれば��」 「藍家にも波及《はき紬う》する、か? 御史台に知られれば、藍家の弱みを撮《にぎ》られることになる。その前にオレをなんとかしようってことだよな。だから雪那様は螢を選んだ。螢を送れば、お前がついてくる。オレと相対できるのは同じ司馬家の人間と−あと楸瑛、お前だけだからな」迅が方天戟の柄《ほうてんげきうか》を握り直した。楸瑛はそれに気づかないフリをした。 「そこまでわかっていながら−」 「…・いったろ。俺はもう、司馬家の人間じゃない。たとえ雪那様がまだ俺を司馬家の人間と考えていようが、関係ない。名を捨てたんじゃない。司馬迅は死んだんだ。五年前に処刑《しよけい》された。そうだろ? もうこの世のどこにも存在しない人間だ。今の俺は、ただの隼だ」十三姫は震《ふる》えた。  楸瑛はゆっくりと剣《!?ん》の柄を握りしめた。 「�その名を誰にもらった」 「あのな、いうわけないだろ。苦っからどっか抜けてるよな、お前」  カッと楸瑛は大喝《だいかつ》した。 「迅ほ死んだというなら、迅の言葉を吐《l止》くな〓‥」 「−その通りだな。ようやくやる気になったか、楸瑛」  楸瑛は迅から日を逸《ょ、》らさないまま、十三姫に告げた。 「…・兇手を見てろ。あいつが何を言おうが、迅の目的はそいつらを逃《に》がすことだ」  迅は舌打ちした。けれどどこか析しそうでもあった。 「惑《まど》わされないよな」 「お前の目の前にいるのは誰だと思ってる」 「俺が認めた唯一《ゆいいつ》の男。——1ま、俺よりは劣《おと》るけどな」 「試《ため》してみろ。−妹を泣かせた償《つぐな》いをさせてやる」   −椒瑛の眼差《まなぎ》しからすべての感情がかき消える。  二人の間にあった距離《きより》が、一瞬《いつし抱ん》のうちに詰《つ》まる。  そうして始まった息つく間もない凄絶《せいぜrJ》な剣戟《けんげき》に、十三姫はただ呆然《ぼうぜん》とした。  目まぐるしく体が入れ替《か》わり、刃が《やいげ》ぶつかる。時々本当に火花さえ散った。  爆発《ぱくはつ》するようにぶつかり合うのはほとんど殺気に近い。 「…・楸瑛見様……あんなに強かった……!?」  よく迅と十三姫に会いに司馬家にきていた楸瑛の剣稽古《!?んげいこ》は、当然何度も見ている。  あれはなんだったのかと思うほどの、桁違《りたちが》いの強さだ。 「……見様たち、わざと見せなかった……?」  強さを誇示《こじ》するのではなく、秘《ひ》めることが誇《ほこ》りだというのが武門の司馬家の家訓だ。  きっと迅も同じだ。この二人が本気を見せるのは、互《たが》いだけだったのだろう。  手に取るように互いの癖《くせ》も闘《たたか》い方も把握《はあ・1》している二人の剣戟は、まるで剣舞《けんぶ》を見ているかのようでもあった。  隙《すさ》を見て仕掛《しふり》けた楸瑛の刃を、迅が方天戟特有の三日月型の刃で受け止める。  押し合いになり、間近で、迅はニヤッと片目だけで笑った。 「…・混じってるな。黒家《こくけ》の癖が入ってる。イイ上官みたいだな。お前の悪い癖がだいぶ直ってる。前より遥《はる》かに強くなった」 「何様だ迅。私が強くなったんじゃなくて、お前が弱くなったんじゃないのか」 「そーゆーことは勝ってからはぎけっての」同時に弾《はじ》いて後ろに飛び退《寸さ》り、間断なく再び踏《;》み込む。  見惚《みし」》れるような武闘《�しこう》に気をとられていた十三姫は、その気配《ヽ11ヽ》に気づくのが遅《おく》れた。  目の前の相手に全神経を集中していた楸瑛と迅も、一拍遅《いつはくおく》れた。  そこにいたのが十三姫でなかったら、その一拍《いつはく》で間違《まちが》いなく死んでいた。  ほとんど叩《たた》き込まれた反射で、十三姫は小太刀をひっつかんだ。  柄に襲《おそ》いかかった衝撃《しようげき》に、どリビリと腕《うで》がしびれる。間を置かず繰《く》り出される容赦《ようしや》ない連撃《ーlんげき》に、十三姫は必死で応戦した。相手の顔を見る余裕《よゆう》もなかった。体勢を立て直すまで、すべて  り集中力を相手の武器に注ぐ。−死ぬほど強い。  けれど変則的な動きだ。正統派の流儀《りゆうぎ》というより、これはまさに−。 (兇手の鑑《きようしゆかがみ》みたいな攻撃《こうげき》……つ)  何かの拍子《ひ上でブし》に、からんと音がした。素早《すばや》く目を向けると、なぜか狐《きつね》の面が落ちている。  振《ふ》り返った楸瑛は−クッと目を見開き、叫《さす》んだ。 「珠翠殿!?」  その名に、十三姫の集中が途切《とぎ》れた。瞬間、《L.ゆ人か人》微かに相手の動きも鈍《ニ!?》ったおかげで、なんとか兆なず距離を置けた。  顔を上げた十三姫も、そこにいるのが確かに珠翠であることを見て取った。  けれど、あのしっかりして、時々ちょっと困ったように微笑《は∵はえ》む美しい筆頭女官とは、明らかに様子が違っていた。  日に、一切《いつさい》の生気がない。楸瑛のように、動きを読まれないためにあえて消しているのとは埋う。ゆっくりとした瞬《まばた》きも、一つの声も発さない様子も、まるで操り人形《あやつにんぎよう》のようだった。 (この日……)  楸瑛や十三姫を見ても、初めて会った他人どころか、まるでモノでも見ているようだ。  そして、この変則的な動き。  珠翠の手には、円形の武器が握られていた。もとは舞踊《ぷよう》に使う道具で、武器に進化したもの�輪の外側が鋭《するど》い刃になって、接近戦で殴《なぐ》ることも切り払《はらl》うこともできれば、投榔《とうてき》して遠距《えんきよ》  顔《,》の相手を仕留めることも可能な武器だ。巧者《こうしや》なら投げた圏《!?ん》がそのまま戻《むど》ってくると聞く。 (乾坤圏《!?んこんけん》−しかもよりによってなんで最新式−!)  珠翠は無表情のまま、まっすぐに十三姫に狙《ねら》いを定めてきた。  迅も楸瑛も遠すぎた。楸瑛は捜《さが》していた女官の名を呼ぶことしかできなかった。 「珠翠殿!!」 「やめろ! まずあいつらの組《なわ》を解け!!」  迅が叫んでも、珠翠は脇目《わきめ》もふらずに十三姫に襲いかかる。  長く戦える相手じゃない——けれどやるしかない。  迎撃《げいげき》態勢をとる。驚異的《ヽlょういてさ》な速さで珠翠が間合いを詰める。  そのとき、十三姫と珠翠の間を断《た》ち切るように梶《こ人》が飛来した。そしてー。 「珠翠!?」  駆《か》け込んできた秀麗の声に、ふっと珠翠の動きが止まった。生気のない膵が僅《けとみわず》かに揺l《缶》れた。  固く閉《と》ざされていた唇が《くちげる》、微《かす》かに、あえぐように開き−声が漏《も》れた。 「しゅ…れ……さま」  青ざめて白い頬《ほお》を、涙が《なみだ》伝った。小刻みに、卵形の輪郭《りんかく》が震える。 「しゅじょ……申し訳……あり……もう、おそば……には」  ハタハタと、透明《とうめい》な涙のしずくがしたたり−。  最後に邵可の名を口中に呟《つぷや》き、珠翠は最後の意志を振り絞《しば》って窓から闇夜《やみよ》に消えた。  楸瑛は血相変えて迅を振り返った。 「迅!!どういうことだ!!答えなければ殺す!!」 「…………」  迅も僅かに戸惑《とまご》ったような表情を浮《う》かべた。次いでゆっくり近づいてくる燕青の気配に、眉《草紬》を澄《けlそ》める。……楸瑛とあの男を同時に相手をして逃げ切るのは難《ヽ》し《ヽ》い《ヽ》。  遇は珠翠が飛び出した窓へ駆けた。そろそろ潮時だ。それに、ここにきたのはこの二人に会うためだった。あのお嬢ちゃんがいるなら、兇手を残す意味もある。 「迅!!」  少女の悲鳴のような声に、足を止めlかける。それでも、止めはせずに窓枠《まごわ一ヽ》にふわりと乗った。 「…・俺を始末したいなら、追いかけてくれはいい」  低く豊かな、耳に心地《ここL、》良い声で、迅は告げた。       ・翁・翁・  迅は、桃林の片隅《かたすみ》で倒《たお》れている珠翠を発見し、抱《だ》き起こした。  瞬間、戟懐《せんりつ》が走った。 「−死にたくなければ、その娘《むすめ》を置いていくことだ」  低く冷たい声が、突《つ》き刺《き》すように迅に死を宣告する。  楸瑛を相手にしても、息も乱れなかった迅の掌が《てのけら》、じっとりと汗《あせ》ばむ。額に汗がいくつも玉を結ぶ。−動けば死ぬ。闘う前から敗北を感じたのは生まれて初めてだった。 「……あんたが、�黒狼《こくろlつ》″か。本当にまだ城にいたんだな」  振り返れなかった。城にいるなら誰かさぐってこいと言われたがー論外だ。  誰かの飼い犬になるような相手じゃない。さぐるだけ無駄《むだ》だ。  迅ほ呼気を整える努力をした。誰が相手でも、言うべきことは言う主義だった。 「…・この女を、置いていってどうなる。また同じことの繰り返しだぜ。この女の暗示……生まれたときから仕掛けられたものだって聞いてる。そこらの術者に解けるような底の浅い代物《しろもの》じゃないんだろ。一度発動したら、二度と自由はない。死ぬまで操られる」なぜあのお嬢《‥しよう》ちゃんのひと言であんなに簡単に解けたのか、不思議なくらいだ。  �黒狼″の沈黙《ちん一Uく》が、迅の言葉の正確さを裏付ける。 「城においたまま、仕えていた王の傍《そげ》で今のように苦しむより、俺と一緒《いつしよ》にいたほうがいい。……この女の腕なら、操られて暴走しょうが、俺が止められる。誰かを殺させないでいてやれる。殴って正気に戻すのも、俺なら楽にできる。でも、城じゃ無理だろ。あんたでもさ」  やわらかな迅の声音《こわね》に、那可は意外に思った。本音か嘘《うそ》かは、すぐにわかる。 「……なぜ、こんなバカな真似《まね》をしてる」 「他《はか》ならぬ�黒狼″に言われるとは思わなかったな」 「私は迷わなかったが、君は迷っている。上の指令を受けても、かつての婚約者《こんやくしや》を殺したくなかったから藍楸瑛をわざと呼んだのだろう。そうすれば殺さないで済む理由ができる。違《ちが》うか? 迷うくらいならやめておけ」迅は息を呑《の》んだ。ぐしゃぐしゃと髪《かみ》をかきやる。 「……なんでもお見通しか。……迷ってるよ。たまに、バカなことをしてるって思うこともある。何が正しいなんて、自分で決めるしかないが、今の俺はそこが揺らいでる。だから迷ってる。でもな、それでも従おうと思うだけのことをしてくれた相手だ。裏切るつもりはない」 「かつての婚約者と親友を捨てても?」 「司馬迅は死んだんだ。死んだ人間が捨てるも何もないさ。それに俺がいないと生きていけないなんて兄妹でもない。特に螢はな。……だが、幽霊《接う一〓∵い》でもできることが一つくらいはあるもんだ。それをしたら、終わりかな。……行っていいか?」邵可は悩《なや》んだ。……珠翠の変化に気づけなかったことに、深い衝撃を受けてもいた。  実際、珠翠を城に留めても、正気と洗脳の放附《主ぎ童》で苦しむだけだ。下手をすれば発狂《はつさよう》する。親しい者のたくさんいる城では、余計に神経をすり減らすだろう。そして邵可も、いつも珠翠の傍にいることはできない。 (あの女……!)  邵可はほぞをかんだ。薔薇姫《ぱらひめ》以外興味ナシの繚璃桜《りおう》はこんなことはしないだろう。璃桜の姉・繚瑠花《るか》の仕業《しわぎ》に違《ちが》いなかった。 「もうそろそろ雨も降るんだけど」  邵可は瞑目《めいもJ、》した。守ると約束したのに−。 「…・いまは、預けておく。大切に扱《あつか》え」 「わかってるよ。俺もなるべく、暗示を解く方法を調べてみるって」  珠翠が現れたときの楸瑛を思いだし、苦笑いする。  生涯片想《しようがいかたおも》いだとぶつくさ言っていた男が�。 「変わるもんだよな」  時は流れたのだ。  その中で、迅だけが止まっているのかもしれなかった。  けれど、元気な螢に一目会えたのなら、それだけでいいと迅ほ思った。     量ml雷管,  皇毅は秀麗があげてきた調書に目を落とした。  それには、監獄別《かんごくペつ》・月別の死刑者《し‖いしや》数の数字が出ている。 「……『牢《ら.つ》の中の幽霊』か」 「はい」  清雅と並びながら、秀麗は額《うなず》いた。 「それぞれの監獄で、ある一定の期間だけですが、死刑が確定した囚人が《しゆうじん》、執行前《しっこうまえ》になんらかの別の原因で亡《な》くなる確率が高くなるときがあります。病死とか、急死とか、本当に呆気《あつけ》なく」 「おかしいと思った理由はフ」 「投書です。死刑になったはずのダレソレを街で見かけたとか、実家に幽霊になって帰ってきたのを見た、とか。そういう訳のわからない投書はたいてい私に回されてくるんですが、ちょっと多いし、やけに詳《くわ》しいなと思ったもので。……もしかしたら幽霊でなくて、本人かもと」蘇芳が牢城の囚人たちから聞き取っていた情報の中にも、同じようなものがあった。獄吏《ごくり》は勿論《りちろん》、何度も牢城に放り込まれたり留置されたりする破落戸《ごろつき》は、自然牢城のことに馴染《なじ》みもす  るし詳しくもなる。死刑が執行される前に何らかの理由で死ぬ死刑囚。貴陽以外のも取り寄せてみたが、やはりぽつぽついた。けれど、ある〓疋の期間・特定の場所においてだけなのだ。  幽霊になるにしても、やけに計算高い感じがする。  もしかして、彼らは書類上死んだことにされただけで、本当は死んではいないのではないか? 誰かの手引きを受け、生きているのではないかと、思ったのだ。  皇毅が、薄《うす》い色の双陣《そうぼう》を秀麗に向けた。 「なぜ死刑囚だと思った?」 「この投書の不思議な点は、みんながみんな、なぜか『牢屋《ろうや》で死んだはず』といっていることです。通りを歩く幽霊を見て、どうしてその人が刑死《けいし》したとわかるのか�それは」 「『幽霊』に死刑囚の入れ墨《ずみ》があったから、か」 「そう判断しました。入れ墨があれば、確かに刑死した人の霊《−1い》だと思うのも納得《なつとく》します」 「死《ヽ》刑《ヽ》を《ヽ》免《ヽ》れ《ヽ》る《ヽ》の《ヽ》と《ヽ》引《ヽ》き《ヽ》替《ヽ》え《ヽ》に《ヽ》、兇《ヽ》手《ヽ》に《ヽ》な《ヽ》れ《ヽ》という取引をしたと考えた理由はなんだ」 「必ず兇手になるかどうかはわかりません。襲《おそ》ってきた相手の何人かが額に焼きごてを押して《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》あ《ヽ》る《ヽ》兇手だった、というだけの話ですから。でも、この確率も高いです」隼はF牢屋で死んだ幽霊の一《ヽ》人《ヽ》hと言った。その隼が兇手をしているなら、他の兇手も『幽霊』として兇手をしているのではないか。だから十三姫《ひlめ》に確認《かくにん》をとった。そうしたら、額に入れ墨はなかったけれど、焼きごてを押されたような跡《あと》はあったと額いてくれた。それは死刑囚            つぶの入れ墨を潰《‘》すために押されたものではないだろうか。 「『牢の中の幽霊』をよく調べてみると、身寄りがなかったり、年老いた母と子一人で死んでも死にきれない家庭だったり、そういった、取引に応じそうな背景の囚人が多いんです。……それと、犯歴から腕《うで》っ節に自信がある死刑囚を好んで選んでるような感じも受けます」たいした罪ではない軽犯罪者に『脱獄《だつごく》のかわりに殺し屋仲間になれ』などといっても乗ってこないのは当然だ。死刑確定、もしくはその判決が出た者は、未来がない。取引もできる。  秀麗は隼を思い返した。  濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられても、なぜか抗弁《こうペん》もせずに長々と死刑囚用の牢へ居座っていた彼。  何度も何度も牢屋に放り込まれ、そのつビギリギリでちゃんと生きて出てきた。  なぜ、あの隻眼《せきがん》の彼はそんなことをしていたのか。彼が放り込まれていた死刑囚牢《しけいし軸うろう》を調べると、必ずではないがポッポッと元気だった死刑囚が『幽霊』になっている。そう、彼が入牢している期間において、『幽霊』確率が高まるのだ。�つまり彼が、自分の目でどんな死刑囚か確かめ、交渉《こうしよう》し、引き抜《ぬ》いていた張本人だったのではないだろうか。 「もちろん、牢城管理や判決は官吏の仕事なので、裏で誰かが助けていたと思いますが……」 『引き抜き』が完了《かんりよう》したら、罪が晴れて出る。もともと出ていくこと前提なので、濡れ衣で放り込まれれば、あとで堂々と出られる。あの隻眼と濃《こ》い肌《はだ》は記憶《さおく》に残るので、脱獄なんか繰《く》り返せば官から臼をつけられる。ただし、秀麗ほ頑張《がんぼ》りすぎてかなり早く濡れ衣を晴らしてしまったので、無理に居座るしかなくなったのだ。 「だから、あの夜、お前は牢城にも警護をまわしたのか」 「ほい。いくつかのことをどさくさにやろうとするなら、あの機に乗じるのがいちばんです。結局成功しませんでしたけど。城や兵部侍即の邸でゴタゴタしている間に、牢城の死刑囚を脱獄させ、仲間に加えるのを目論《も↑ヽろ》んでいないとは限らないと思いました。例の隻眼の男が牢城から出て行った前後で、まだ急死した 「幽霊』は出ていませんでしたし」だから念のため、蘇芳に牢城へ行ってもらったのだ。もっともその前日、警衛を確認するために蘇芳と赴《おもむ》いたとき、格子《こうし》の向こうで燕青を発見したのにはさすがに唖然《あぜん》としたが。  秀欝の牢城襲撃《し博うげl】》の予想は当たり、清雅が行ったときにはなんとか撃退《げさたい》できていた。おかげで牢城の死刑囚を脱獄させられるという失態も犯《おか》さずにすんだ。 『牢屋で死んだ幽霊』  誰かが、何年もかけて、そっと死刑囚をかすめとり、兇手やその他、利用しょうとしている。  兵部侍郎は確かに関《わ・わ》わっていた。邸から出てきたもろもろの証拠《し上でツこ》がすべてそれを示している。  秀麗はそれで終わりだと思っていた。けれど、彼は口《ヽ》を《ヽ》封《ヽ》じ《ヽ》ら《ヽ》れ《ヽ》た《ヽ》の《ヽ》だ《ヽ》。  そしてやけに無口だったくせに、最後は秀麗の言葉をあっさり素直《すなお》に認めた清雅。  何か、隠《かく》されている。裏にまだ誰かがいる。  秀巌はぐっと顎《あご》を引いた。 「葵長官」 「きしでがましいことをいうな」 「ま、まだ何もいってないです!」 「見当はつく。この件はここで終わりだ」  秀麗には、皇毅が何を考えているのかまるで読めなかった。ただ、秀贋が考えることは、とっくの昔に皇毅が勘《かん》づいているのだというのはわかった。そしてもうひとつ。  宗�牢湖や裁判にカラクリをしかけられるほど絶大な影響力《えいきようりよく》を持つ人間の中に、葵皇毅は間《ま》違いなく含まれている。  皇毅の無骨な指がl、ゆっくりと机案《つ′1え》を打った。 「……とらえた下っ端《は》の兇手ごときでは、嘉の背後関係までは知るまい」  薄く感情のない眼差《よなぎ》しが、ゆっくりと秀麗を捕《と》らえる。この冷厳なる目で見られるたびに、まるで心までもからめとられるようなひんやりとした心地《ここおり》がする。 「兇手の親玉と話したそうだな」 「はい」 「その場に藍楸瑛もいたとか。その男、藍家に関係する人間だな」  すでに断定口調だ。黙《だま》りっぱなしの清雅が、このとき僅《わず》かに視線を秀麗に落とした。  ぐっと秀麗は拳《こぶし》をにぎりこんだ。�−きた。そう、清雅が秀麗を馬車に閉じこめたのは、轍嘆がくるのを確かめるため−兇《ヽ》手《ヽ》に《ヽ》、藍《ヽ》家《ヽ》が《ヽ》な《ヽ》に《ヽ》が《ヽ》し《ヽ》か《ヽ》繋《ヽ》が《ヽ》り《ヽ》が《ヽ》あ《ヽ》る《ヽ》か《ヽ》裏《ヽ》を《ヽ》と《ヽ》る《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》。 「−違《ちが》います」 「なぜそう言いきれる」 「当の藍将軍と十三姫が『赤の他人です』って証言してます」 「バ力めが。嘘《・」エ、》っぱちに決まってるだろう。兇手の親分と知り合いですなんてことを素直に認めるわけがあるか」秀麗はぐぐ、と詰《つ》まった。……その通りだ。 「で、でも本物の他人だって『真っ赤な他人です』っていうしかないじゃないですか」 「やけに赤の度合いが増したな。やたら否定したがるな。何かあるのか」 「名字で愛着があるんでちょっと赤を浪いめにいれてみたんです! 何もありません!!」 「濃いめにいれるのは茶だけで充分だ《じ博うぷ人》。あいにく私は赤が嫌《きら》いだ。逆効果だったな」  秀麗はぶるぶる震《ふる》えた。……う、うまい……。  皇毅はいくつかの書翰《しよかん》に再び視線を落とした。 「紅秀麗、私情と先入観をはさむなら即刻《そつこく》クビにする。最初から『真っ赤な他人です』などとバカをほざく監察《かんさつ》御史などなんの役にもたたん。家族だろうが友人だろうが恋人《こいぴと》だろうが頭から疑ってかかるのがこの仕事だ。節穴の臼では見つかる証拠も見つからん」 「上司も、ですか」初めて、皇毅の目に人間らしい感情がひらめいた。薄い唇に嘲弄が《くちげるちようろう》刻まれる。 「当然だ。上司は貴様より遥《はる》かに経験豊富で証拠を隠すのがうまい。目を皿のようにしてるんだな。! この件ほここで終わりだ。孟侍即は地方官を子飼いの兇手《さようし紬》で暗殺したあげく、娘《むすめ》を後宮に入れようと十三姫暗殺を画策。失敗、急死。それで仕舞《しま》いだ」 「待ってください!」  秀麗は思わず一歩踏《ふ》み込んだ。−考えていた、ことがある。  兵部侍郎がここまでやりたい放題やっていた。それを直属の上司である兵部尚書がまったく知らなかったということがあるだろうか? 「兵部侍郎の、上のー」 「−黙れ」  心臓さえ凍《1.》てつきそうなその声に、さすがの秀麗も震えた。 「いいか。私が終わりだと言っているんだ。それが受け入れられないのなら、官吏をやめろ。それか、私より士になるんだな」  ……秀麗が唇をかみしめて出て行った後、皇毅は清雅を見た。  二……報告をしろ」 「ほい。孟真部侍郎の別件《1ヽ》ですが、牢城《ろうじよう》と同じですね。軍律違反で処罰された武官、武史のうち、使えそうな武官を兇手に横流ししていたようです。彼の任命権を以《もつ》て濡れ衣を着せて軍律違反にさせていた可能性も充分あります」 「お前が連日邸に押《やしきお》しかけて警護の名目で武官をばらまくのを見て、さぞや孟侍即も冷や汗《あせ》ものだったろう。疑われているのではないかと自作自演に走らせてシッポを出させたか」 「妙《みよう》な真似をさせないためと、先に口封《くちふう》じされないためでもあったんですが。……どうやら孟侍郎ほ勝手にどこぞの兇手を動かして、誰かの怒《いか》りを買って粛清《し紬くせい》されたようですね」                                                                                                    ユ�)  薄い色の目で、皇毅は一の配下を見た。いつでも上を狙《一▼一1�》っている青年を。 「お前も上に手を伸《の》ばすつもりかフ」 「やるにしてもあの女よりはよっぽどうまくやりますよ」  秀麗を止めたようには清雅を止めなかった。確かに清雅がへマをすることはないだろう。 「あの娘は牢城の死刑囚《しけいしゆう》に、お前は軍律違反の武官に目をつけた。なかなかいい勝負だな」 「面白《おもしろ》いじゃないですか」  皇毅の双膵《そうぼう》に微《かす》かに物珍《ものめずら》しげな光がよぎった。清雅が仕事に対してつまるつまらないなど言うのはずいぶんと久しぶりだ。……だいぶ紅秀麗の影響があると見える。  どこかで誰かが飼っている兇手《きょうし軸》の集団ができつつある。  かの�風の狼″《おおかみ》を真似《まね》するように。  どこかで少しずつ歯帝がまわる音が聞こえた気がした。       ・器・希・   −その日、楸瑛ほ左羽林軍将軍の鎧をまとい、登城した。  ゆっくりと、文《ふみ》にしたためた約束の場所へ歩いていく。  途中《とら博う》で、誰かが待っていることに気づいた。 「……経倣。仕事は?」 「抜けてきた。もういい加減あれこれうんざりだったしな」 「一人でよく迷わなかったね」 「おうとも。途中で道案内を雇《やと》ったからな!」  楸瑛が絳攸の視線を辿ると、うんざりと疲《つか》れきった顔のリオウが木にもたれていた。どうやら絶賛迷子中の絳攸にむりやり|拉致《らち》られ、案内させられてきたらしい。漆黒《しつこく》の目にも、ありありとなんでこんなことに、と書いてある。  しかし絶対自分の方向音痴《おんち》を認めなかった絳攸が、こうして堂々と認め、誰かに道案内を頼《たの》んだことに楸瑛は驚《おどろ》いた。単にやけくそになっているだけなのか、それとも−。 「……どうするつもりだ」  脱《にら》み付けてくる締牧に、楸瑛は小さく苦笑いした。  絳攸と楸瑛では、決定的に違《ちが》う点がある。  それは、ずっと締牧が気に病んでいたことでもあるけれど、今の楸瑛ほそれを羨《うらや》ましく思う。 「経倣、君と私の決定的な違いは何だと思う?」 「馬鹿《ぼか》言え。どこもかしこも違うだろ」  そうだね、と笑ったけれど、楸瑛はもう軽口を叩《たた》かなかった。 「�私は藍家の男だけど、君は紅家に属してはいない、ということだよ」  絳攸の眉《よゆ》が攣《ひそ》められる。  楸瑛は、それが黎深が紅姓《せい》を与《あた》えなかった本当の理由かもしれない、と思う。  それは絳攸にあって楸瑛にない武器だった。  絳攸は黎津に縛《しば》られてほいるが、紅家の人間ではない。絳攸が相対すべきは黎深一人。  −けれど、楸瑛は違う。  様々なものを背負って、ここまできた。 「私は君とは違う。生まれたときから、藍家の人間なんだ」  リオウの漆黒の双隙が、二人の言葉を吸いこむように深くなる。  この二年を思いだす。……そう、まだたったの二年しかたっていない。  短いはずなのに色濃《いろこ》くて、近いはずなのに遠いような二年間。  ゆっくりと、絳攸の傍《そぼ》を通り過ぎる。振《ふ》り返ることはしなかった。  絳攸が振り返る気配がしたが、言葉はなかった。 「経倣、私はもう心を決めた。君は王の傍にいればいい。でも、私はもう無理なんだ」  静蘭に罵倒《ぼとう》されても仕方がないほど、何も見ず、考えずにきてしまった。  そこはとても居心地《いごこち》が良くて、楽しくて、優《やき》しい居場所でありすぎて。  王の優しさに、甘えてきたのは自分のほうだったのだ。 「……楽しかったね、経倣。でも、それだけではだめだったんだ」  あきらめるように、撒瑛は溜息《ためいき》とともに呟《つぷや》いた。  それではだめだったことにいつ気づけばよかったのか、楸瑛にはわからなかった。  王は、約束のその場所で、すでに待っていた。  右羽林軍大将軍自雷炎《はくらいえん》も、左羽林軍大将軍黒煙世《こ・、ようせら、》も、静蘭もいた。  霄太師と宋太博も、いた。宋太博の肩《かた》には、タロとシロが乗っかっている。  鄭悠舜も、旺李もいた。  いつもはにぎやかな羽林軍の▼稽古場《けし.こば》にいたのは、それで全員だった。  楸瑛ほゆっくりと薫の前に進み、少し離《はな》れて立った。            1.L.−  正式な脆拝《−いーL▼》をとる。 「……文にしたためたとおり、お手合わせを、願えますか、主上」  王はコクリと諦《∴ソ左r》いた。どこか泣きそうな顔だった。  ……けれどこんな顔をさせたのは、他《はか》ならぬ自分なのだ。  何度楸瑛は、王にこんな顔をさせていたのだろう。  何度、真夜中に溜息をつかせてきたのだろう。  何度−自分たちはこの優しい王を傷つけてきたのだろう。  すべては楸瑛自身のせいだった。  楸瑛は感傷を断《た》ち切るように一度、強く目を閉じると、剣《けん》を抜《ぬ》いた。  眼差《まなぎ》しが変わる。 「�行きます」  ……最初に、宋太博が気づいた。次に、黒煙世が。  自害炎は、曜世に確かめた。 「…・曜世……楸瑛の野郎《やろう》」 「………・ああ」  曜世は溜息をつき、宋太侍が太い眉を険しく寄せた。 「……王は本気だ。が、藍楸瑛ほ本気になりきれてねぇ。……この期《ご》におよんでもな」  宋太博直伝の剣は、楸瑛がいくら強くても、本気でないのに負けるほどもろくはない。  最初から稽古《けいこ》のつもりなら別だが、なりきれないというのは、どこかに躊躇《ためら》いや迷いがあってのことだ。それでは動きも剣も判断も鈍《にぷ》る。−必ず隙《すき》ができる。  本気で応じている劉輝が、そこを見過ごすわけがなかった。  そして長くて短い剣戟《け人げき》に、終わりがくる。  楸瑛の剣が、宙に弾《はじ》き飛ばされる。すかさず詰《rj》めた劉輝は、剣の柄《つか》を鰍喋にめいっぱい叩き込んだ。鎧をしていても貫通《かんつう》するような衝撃《しようげき》に、足を踏《ふ》みしめてもよろめいた。僅《わず》かに動きが止まった一瞬《こ.つしゆ人》を狙ってさらに足払《あしばら》いをかける。  倒《たお》れこんだ楸瑛が顔を上げると、目の前に切っ先がつきつけられていた。  劉輝は最後まで無言だった。  弾かれた剣が計ったように傍に転がってきた。けれど楸瑛はもう握《にぎ》ろうとはしなかった。   −勝負は、ついた。  楸瑛は息を切らし、仰向《あおむ》いた。その日に、初夏の匂《にお》いがする青い青い臭《そら》が映り込んだ。  目を、閉じる。囁《きさや》くように、告げる。 「……私の、負けです」  最後の最後まで本気で相対してくれた劉輝に対して、轍域はどうしても司馬迅と相対したときのようにはなれなかった。その躊躇いは、優しさでも何でもなく、劉輝に対する心の垣根《かさね》だった。楸瑛ほー劉輝に本気で向き合うことからただ逃《,−》げていただけなのだ。  本気で向き合えば、王と藍家を秤《はか!?》にかけざるを得ないと、どこかで気づいていたから。  いつだってそうだった。 「いつか本気で手合わせをしてください」などと軽口を叩きながら、そんなのは〓だけだった。劉輝はいつも本気だったのに、楸瑛はそうではなかった。  �この、最後の最後のときまでも。  楸瑛ほ、劉輝を選ぶことができなかった。 「……これが……答え、です」  劉輝が、ぐっと唇《くちげる》をかみしめるのが、わかった。  優しくて優しくて優しい王。  ……『二番目でもいい』と、いつだって彼は言った。一番が藍家でいい。二番目で良いから、どうか傍にいてほしい、と。  けれどそんなことは、楸瑛の心が許さない。  いつか兄と藍家をとるかもしれないと思いながら、王の傍に仕えることなどできはしない。  これが、答えだ。  楸瑛には、王の隣に控《となー}ひか》える資格など、ありはしなかったのだ。 「主上……私は、あなたにふさわしくありません」  汗《あせ》が、次々と額からしたたりおちる。  中の一つが目の端《はし》にすべりこみ、視界が渉《にじ》む。  まるで、王が泣いているようだと、思った。  それとも、泣いているのは、自分だろうか。  まだ……いわなければならないことがあるのに。 「……妹の十三を、どうかお傍にお召《め》し下さい。藍の名とともに」  劉輝が微《か寸》かに震《ふる》えるのが、わかった。あえぐように小さく息を吸った。  楸瑛は、答えを聞かなかった。  肘《ひじ》をつき、鉛《なより》のように重たい鎧《よろい》を起こす。……迅が、遠い昔に言っていたことがある。  鎧が重く感じるときは、死ぬときか、武人をやめるときだと。 (……お前は、いつも正しいよ)  いつだって、あの男は正しくて、自分は間違《圭ちが》えてばかりだ。  脳裏《のうり》に、闇《やみ》に駆《ふり》け去る珠翠の泣き顔が浮《う》かんだ。  そう……いつだって、自分は間違えてばかり。遠回りばかりして。  いつだって本当に大切なものを掌《ての!?ら》からこぼしてしまう。 (もう、終わりにしなければ)  傍に転がった抜き身の剣には、�花菖蒲《——ー‥なしょうぷ》″の鍔《つば》がある。撒瑛はそれを捉りしめた。  片膝《かたりぎ》をつき、劉輝にこうべをたれる。  �花菖蒲″−その花言葉そのままに、王から寄せられていたあふれるほどの信頼《し人らい》に、楸瑛は何一つ応《.一h�》えることができなかった。……最後の最後まで。  楸瑛は手にした剣を、首を垂れたまま、両手で静かに献上《はんじよう》した。 「御君より賜《た溝わ》りましたこの�花菖蒲″……至らぬこの身には、あまりにも分不相応過ぎたものだったようです。もはや御者のお傍にお仕えする資格など……ありません。藍楸瑛、今この時をもって、�花″及《およ》び左羽林軍将軍職を返上し、藍州への帰還《さか人》を、願い奉《たてまつ》りたく存じます」                                                                           、ノ一Fその言葉は、その場にいた全員の耳にはっきりと響《†.ム′し》いた。  楸瑛には、劉輝が一歩を踏み出すまで、長い時間があったのか、それともごく束《つか》の間だったのかは、わからなかった。ただ、ふ、と掌から剣の重みが消えていく感覚だけを胸に刻んだ。                                                                                                                                                 ヽノ  離れた剣の代わりに、楸瑛は掌に何か軽いものがちょんと載《1V》せられたのに気付いた。  顔を上げると、小さな白い手巾《しゆきん》があった。 「……汗だくのお前を見るのを、最後にはしたくないからな」  劉輝は顔を背《そむ》けて、ぶっきらぼうに言った。  そして、長い長い間黙《だ圭》りこくった後、小さな小さな声で、その言葉を告げた。 「……好きにしろ」  楸瑛は日を閉じ、許しを請《.一》うように、もう一度首を垂れた。  静蘭は、ひとつのことが終わったことを、感じた。       ・器・巻・  執務室《しっむしっ》の椅子《いす》に、劉輝は黙って座っていた。  後宮に戻っても、もう慰めてくれた心優しい筆頭女官はいない。そして楸瑛も、また。  扉《し1け∴》が開き、静蘭に手を引かれて悠碑が入ってくる。  コツ、コツ、としたその音を聞きながら、劉輝は目を閉じた。ポソッと呟《つぷや》く。 「…・慰《なぐさ》めは、いらぬぞ」          は;lーえ  悠舜ほ微笑んだ。 「では、何が欲しいですか」 「藍楸瑛」 『あなたの望みを叶《か査》えましょう、我が君』  悠舜がくれた言葉が、劉輝を支える。 『�なら、しがみつけ。あきらめるな。最後の最後まで勝負をかけろ。あらゆる策を巡《めぐ》らし、  決断し、勝利をもぎとれ』  あきらめきれない大切なものを、失いたくないのなら。  H大丈夫《だいじようぷ》です。何があっても、おそばにいます。私とーお嬢様だ《じようさま》けは、必ず』  迷いはいつもある。傷つきたくないから何も望まないで生きてきた。  府庫の片隅《かたすみ》で、優《やさ》しい誰かが手を差し伸《の》べてくれるのをただ待っていた。  秀麗と出会うまで、劉輝の世界は掌に載るくらい小さかった。−すべては自分のせい。  傷ついてもいいから何かを手に入れたいと、思わなかったから。  でも、もうあきらめない。            ちようて∴‥・七の 「悠舜�朝廷を頼む」 「かしこまりましたLl悠舜は、頬《ほお》を綻ば《はころ》せた。そう、そのために自分は来たのだ。もう劉輝は、欲しいものは自分で取りに行ける。 「−藍州へ」  あとがき  お元気でお過ごしでしょうか〜この後書きを書いている時点で絶賛イソフルエソザ中の雪《ゆき》乃紗衣《のきい》です。38度7分の体温計を見なかったフリをし、解熱剤《げねつぎい》を飲みながらようやっと本編を仕上げましたが、連日、体温が朝から晩まで36度から39度まで目まぐるしく変わって、もう何が何だかわかりません。唯一《ゆいも、つ》何が良かったって、あまりの悪寒《おか人》とどこもかしこも痛む体に、仮《か》眠《み人》をとってもいつものようにズルズル寝過ごすこともできず、ヨ? ヨ? 起き上がって机に向かえたことでしょうかね……。おかげでほとんど寝ないですみましたヨ!(やけくそ)さて今巻は 「セーガインパクト」といったところでしょうか。彼のお陰《かげ》で、今までお花畑に見えていたものが焼畑になったような感がありますな……。あとは、人生一度はマジメに考えないとあとでツケが回ってくるよ、というか……。な、楸瑛、劉輝《しゆうえいりl紬うき》。ガンバレ! ちなみに副タイトルの月草は露草《つlゆくさ》のことで、緯度な藍色の花を咲かせます。別名螢草《はたるぐき》とも。  最後にバレンタインチョコを下さった皆様《みなさま》に、この場をお借りして心からお礼申し上げます。  大変嬉《うお》しく頂きました。−それでは、またの機会に。花粉症《かふんしよう》にお気をつけくださいね。                               雪乃紗衣